94食目 蓮は水面に咲く
放課後のグラウンドは、全国大会へ向けた熱をそのまま地面へ焼き付けるような強度で回っていた。
ミニゲームのテンポは速い。
中盤の圧縮も、切り替えの速度も、予選決勝を経て一段階上がっている。
「天根センパイ!」
若葉の声と同時に、中央へ鋭い縦パスが差し込まれる。
蓮は半身で受けた。
右足の面で勢いを殺しながら、背後のプレッシャーを感じるより先に視線を前へ走らせる。
桐生が左へ流れる。
サイドが裏へ走る。
若葉がリターンを受ける位置へ顔を出す。
選択肢は三つ。
その中で最も速く、最も次の展開へ繋がる一本を選ぶ。
ワンタッチで桐生へ流し、そのまま自分も前へ出る。
返ってきたボールをダイレクトで右へ散らすと、サイドがそのまま深く抉った。
「いい感じっすね!」
若葉が思わず声を上げる。
プレーに乱れはない。
身体も軽い。
だが、どこか思考の一部だけが別の場所に残っている感覚があった。
給水のタイミングで若葉がボトルを持ったまま首を傾げる。
「天根センパイ、今日ちょっと上の空じゃないっすか?」
蓮はボトルを受け取りながら短く返した。
「そんなことない」
だが、横でタオルを首にかけた桐生が小さく笑う。
「いや、若葉の言う通りだな。プレーはいつも通りだけど、たまに思考飛んでるぞ」
蓮は少しだけ眉を寄せた。
「……別になんでもないです」
「いや絶対なんかあるやつじゃないっすか!」
若葉が食い気味に身を乗り出す。
その勢いに桐生が肩を竦めた。
「おいこら柏原。ちょっと落ち着け」
だが桐生自身も、探るような視線を蓮へ向けていた。
ミニゲーム終了後、三人はベンチ脇へ腰を下ろした。
夕方の風が、汗を冷やすようにグラウンドを抜けていく。
少しの沈黙のあと、蓮がぽつりと口を開いた。
「……この前、椿が三日間いなかった」
若葉がすぐに反応する。
「橘さんが?あー、合宿研修っすか」
「ああ」
蓮は視線をピッチへ向けたまま続けた。
「その間、自分で食事を作った」
「え、天根センパイが?」
「ああ。レシピは送ってもらってた。量も栄養も問題ないし、練習後の回復も、いつも通りだった」
ここで一拍置く。
「でも、食った後の感覚が違った」
若葉が首を傾げた。
「感覚?」
「満たされない、って言えば近いな」
桐生の目がわずかに細くなる。
蓮は自分の中を整理するように、言葉を積み上げていく。
「味も悪くなかった。レシピ通りに作ってたから、栄養面にも問題はない」
そこで、ここ数日の食卓が脳裏を過る。
静かなキッチン。
包丁の音がしない夜。
誰もいない食卓。
「それでも、食べ終わった後に何か足りない感じが残った」
若葉が「ほぉ……」と小さく声を漏らす。
「でも、椿が戻ってきた朝と、熱出した時に隣で食った時は違った」
言葉にした瞬間、自分でも少しだけ胸の奥がざわつく。
「え、橘さん、熱だったんすか?」
「ああ。それなのに、帰ったら俺の飯作ってて。
その後、ふらついたからそのまま部屋に運んだ」
「えっ、ちょっ……」
「柏原」
桐生は人差し指を口に当て、若葉を制する。
蓮はさらに続けた。
「椿の本に書いてあった。“食事幸福性”って」
「しょくじ……こうふくせい?」
若葉が復唱する。
「同じ栄養価でも、誰が作るか、誰と食べるかで満足感が変わるらしい」
桐生の口元がわずかに上がった。
ここで初めて、口を開く。
「なるほどな」
だが蓮の話はまだ終わらない。
「それだけじゃないんです」
視線が少し落ちる。
「熱があるって聞いた瞬間、気づいたら走ってた」
若葉の目が丸くなり、思わず桐生を見上げる。
蓮の独白は続く。
「部屋でふらついた時も、考える前に身体が動いてた」
桐生の表情も少しだけ変わった。
「昨日の朝も、熱が下がってるか確認してた」
言葉を重ねるたびに、自分の行動が輪郭を持っていく。
「今日も、気づいたら栄養科棟の方見てた」
そこで若葉が耐えきれなくなったように身を乗り出した。
「いや、天根センパイ、それ……」
だが、桐生が先に息を吐いた。
「お前さぁ」
少し呆れたような、それでいてどこか納得したような声だった。
「それってもう答え出てんじゃね?」
蓮の思考が、一瞬だけ止まる。
若葉が勢いよく口を開いた。
「もしかして天根センパイ、初恋っすか!?」
「あ゛!?お前!」
「あっ、やべっ ――ぐえっ!」
桐生が慌てて首根っこを掴み、再び若葉を引きずり去った。
「お前さぁ……」
「すんません、つい……
でもあれって!」
「全く、空気読めよ……
まぁいい加減じれったかったからなぁ。今回は大目に見てやるよ」
「あざっす!よかったっす!」
だが、そんな2人の喧騒も、蓮には届かない。
若葉の言葉に、世界の時間が遅れて流れているような感覚だった。
初恋。
その言葉は、自分とはどこか結びつかなかった。
これまで恋愛を必要としたことはない。
競技に必要なものだけを選び、積み上げてきた。
だが、若葉の言葉から“初”の一文字だけが剥がれ落ちるように、別の文字が胸の奥へ沈んでいく。
恋。
その一文字だけが、妙に輪郭を持って残った。
誠和との決勝。
桐生へ出せば一点だった場面で、自分で行ったあの一本。
見てほしかった相手。
三日間、満たされなかった食事。
熱を帯びた額。
服の裾を掴んだ小さな指。
朝、額へ手を当てた時の心拍。
すべてが、その一文字へと繋がっていく。
「……恋、か」
蓮は誰にも聞こえないほど小さく、そう零していた。
グラウンドの喧騒の中でも、その言葉だけが胸の奥で静かに、しかし確かな熱を持って残り続けていた。
「桐生さん、若葉。俺……
あれ?」
気づけば周りには、蓮一人の影しか無かった。
行き場の失った言葉が、蓮の口から溢れる。
「恋……俺が……
……椿に」
夕焼けに伸びた自分の影だけが、やけに長く見えた。
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