95食目 隠れ咲いて
蓮が感情に名を与える少し前。
椿が蓮の部屋を出た朝――。
マンションの自動ドアを抜けた瞬間、椿は思わず足を止める。
胸の奥が、落ち着かない。
熱はもう下がっている。
身体のだるさもほとんどない。
歩くことに不安はないはずなのに、心拍だけが朝からずっと速かった。
原因は分かっている。
数分前までいた場所。
見慣れない白い天井。
柔らかなシーツの感触。
そしてなにより、まだ微かに残る、知らない枕の匂い。
「……っ」
思い出した瞬間、耳の先まで熱くなる。
昨夜の記憶は、熱に浮かされて曖昧なはずだった。
それでも、ところどころだけ妙に鮮明に残っている。
ふらついた身体を支えられた腕。
背と膝裏へ回った手。
抱き上げられた感覚。
そして今朝。
額へ触れた掌の熱。
近づいた距離で、真っ直ぐに向けられた視線。
「……何よ、もう」
小さく零した声は、朝の道路に溶けるように消えた。
バッグの中で弁当箱が小さく揺れる。
その重みが、また胸をざわつかせた。
いつもなら、自分が作るはずだったもの。
自分が蓮の体調と練習量を考えて組み立てるはずだった昼食。
それを、今日は彼が作った。
ただその事実だけで、胸の奥に熱が灯る。
歩きながら、無意識にスマートフォンを取り出す。
画面には今朝送ったメッセージが残っていた。
【昨日は、ありがとう】
たったそれだけ。
本当はもっと言いたかった。
助けてくれたこと。
看病してくれたこと。
朝食まで用意してくれたこと。
でも、面と向かっては言えなかった。
あの場で言葉にしようとしたら、きっと平静ではいられなかった。
椿は小さく息を吐き、画面を閉じた。
そのまま校門を抜け、栄養科棟へ向かう。
朝の校舎はまだ静かで、廊下に響く足音がやけに大きく聞こえた。
教室へ入ると、まだ始業前で人はまばらだった。
椿は自分の席へ座り、ノートを机へ広げる。
だが、ページを開いても文字が頭に入らない。
視線だけが机の上へ落ちる。
今朝の光景が、何度も何度も脳裏を往復していた。
「……何してるのよ、私」
自分に言い聞かせるように小さく呟く。
その時だった。
「椿、おはよー」
横から聞こえた声に、肩がびくりと跳ねる。
振り向くと、陽菜がいつもの調子でバッグを机へ置きながら笑っていた。
「……おはよう」
「熱、もう大丈夫なの?」
「ええ、もう平気よ」
努めて平静に返す。
だが陽菜は席へ座る前に、じっと椿の顔を見つめた。
「ふーん」
「……何よ」
「いや、体調は良さそうだけど」
一拍置いて、口元を緩める。
「別の意味で顔赤いなーって」
「……っ」
椿は思わず視線を逸らす。
陽菜はその反応を見て、小さく笑う。
「昨日、天根くんと何かあった?」
朝から核心だった。
椿の呼吸が一瞬止まる。
「……別に」
「別に、の顔じゃないでしょ
天根くん、大慌てで帰ってたし」
逃げられない。
陽菜相手に誤魔化し切れないことは分かっている。
少しの沈黙のあと、椿は小さく息を吐いた。
「……熱が出て、昨日休んだの」
「しってる」
「それで、帰ったら……蓮くんが」
名前を口にするだけで胸がざわつく。
「支えてくれて、そのまま……」
耳まで熱くなる。
「……蓮くんの部屋で寝てたわ」
「……え?」
陽菜の動きが止まる。
だが次の瞬間、机へ身を乗り出した。
「ちょっと待って!?それかなり大事件じゃない!?」
「ちょっと、陽菜!声が大きい!」
「いや大きくなるでしょ!」
椿は手で顔を覆い隠した。
「今朝起きたら、朝食とお弁当まで作ってくれてた」
「えっ」
「それで、熱が下がったか確認されて……」
そこまで言ったところで、また今朝の距離感が蘇る。
陽菜はしばらく黙ったまま椿を見つめていた。
そして静かに口を開く。
「……嬉しかったんでしょ」
その一言が、胸の奥へ真っ直ぐ落ちた。
否定できなかった。
「それは……うん」
小さく、けれどはっきりと答える。
「そっか」
陽菜の声が少し柔らかくなる。
「じゃあ、いいじゃん」
「よくないわ」
椿は即座に返した。
その声に、陽菜が少しだけ目を丸める。
椿は視線を机へ落としたまま、ゆっくりと言葉を続けた。
「蓮くんは、いま全国を目指してる」
インターハイ。
その先の、もっと高い舞台。
「そして、もっと先を見据えてる」
海外クラブとの契約。
いずれは国を背負って立つだろう。
彼ならもしかしたら、国という単位に収まらない可能性だってある。
「その時、私の感情が、その邪魔になるかもしれない」
言葉にした瞬間、自分の中で輪郭がはっきりする。
陽菜は黙って聞いていた。
「私は、あの人の身体を支える立場でいたい」
食事を通して、彼の回復やパフォーマンスを支える。
それが今の自分にできる最大のことだ。
「だから」
椿は静かに息を吸う。
「この気持ちに嘘はつかない」
好きだという感情を、否定するつもりはない。
もう蓋をして無かったことにもできない。
「でも、蓋はしないだけで、蓮くんには出さない」
一度、大きく息を吐く。
「絶対に、出さない」
その言葉は、自分の中で静かに定着した。
椿の決意した表情を見て、陽菜は思う。
(天根くんもどう見ても......うーん、まだ言わない方がいいのかなぁ)
陽菜はしばらく椿を見つめた後、小さく息を吐いた。
「……椿らしいね。
それで?天根くんは今朝どんな様子だったの?」
「別に……いつもと変わらない様子だったわ」
「あの朴念仁め……(決めた。絶対言わない)」
陽菜のため息に合わせてチャイムが鳴り、いつもどおりの空気が戻る。
椿は静かにノートを開いた。
胸の奥で熱を持ち続ける感情を、自分の内側へそっと抱え込むように。
彼の未来を曇らせないために。
少なくとも、今は。
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