93食目 朝に残る熱
朝、椿が目を覚ました時、最初に視界へ入ったのは見慣れない天井だった。
「……え」
声にならない息が漏れる。
白い天井。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。
視線を横へずらせば、見慣れた自室の本棚も机もない。
一拍遅れて、昨夜の記憶が一気に戻った。
ふらついた身体。
額へ触れた手。
抱き上げられた感覚。
ベッドへ下ろされた時のシーツの沈み込み。
そして理解する。
ここは、蓮の部屋だと。
「……っ」
指先が無意識にシーツを掴む。
熱は昨日より明らかに下がっている。
頭の重さも、身体のだるさもかなり軽い。
それでも胸の奥だけが、まったく落ち着かなかった。
昨夜、自分はこのベッドへ運ばれた。
その事実を認識した瞬間、耳まで熱くなる。
さらに、記憶がもう一つ浮かび上がる。
『すぐ戻るから』
服の裾を掴んでしまった、自分の指先。
「……なにしてるのよ、私……」
枕へ顔を埋めたくなる衝動をなんとか押し留めた、その時だった。
――トントン。
部屋の外から、包丁の音が聞こえた。
続いて、換気扇の低い駆動音。
フライパンに何かが触れる、油の小さな弾ける音。
「……え?」
数秒、思考が止まる。
音の意味を理解した瞬間、椿は慌ててベッドを出た。
部屋の扉を開けると、リビングの先に、キッチンに立っていたのは蓮の姿があった。
フライパンを片手に、朝食の準備をしている。
「……起きたのか」
振り返った声は、いつも通り落ち着いていた。
その平静さが、逆に椿の心拍を跳ね上げる。
「……え、ええ」
視線が合った瞬間、昨夜の記憶がまた蘇る。
抱き上げられた腕。
額に触れた手。
服を掴んだ自分。
思わず目を逸らし、キッチンへ視線を逃がした。
「……朝食、私がやるつもりだったのに」
「今日は休んでろ」
短い返答。
だが、そこに迷いはなかった。
テーブルの上にはすでに朝食が並び始めている。
「待ってろ、もう朝食はできる」
「どうやって……」
「椿が溜め込んでくれてたレシピのノートだ。まさかノートがレシピ本代わりだったとは......
前日の状態も書いていてくれたから、参考になった」
キッチンに目を向けると、その横には弁当箱まで置かれていた。
「……これ、まさか」
「ああ。弁当も詰めた」
椿の思考が一瞬止まる。
「れ、蓮くんが……?」
「これまで椿がやってきてくれたことを、そのままやっただけだ」
淡々とした口調。
それなのに、その一言が妙に胸へ残る。
これまで、自分が彼にしてきたことを、今度は彼が返している。
その事実だけで、また頬が熱くなった。
「……じゃ、じゃあ私、先に行くわね」
これ以上ここにいたら平静を保てない。
そう判断して、バッグを肩へかけ玄関へ向かう。
その瞬間、背後から声が届いた。
「待て」
足が止まる。
振り返るより先に、蓮の足音が近づいてきた。
次の瞬間、額へ手が触れる。
「椿。熱は」
「だ、大丈夫だから……!」
思わず半歩下がる。
だが蓮の視線は、昨夜と同じように真っ直ぐこちらを見ていた。
「……無理、してないか?」
一拍。
「昨日あれだけ熱あったし」
その言葉に、胸が強く跳ねる。
自分のことを、心配してくれている。
熱の高さも、ふらついたことも、全部。
「ほ、本当に大丈夫だから……!
もう熱は下がったし、授業もあるから……」
それだけ言って、椿は弁当を受け取る。
これ以上ここにいたら、本当に顔を見られない。
「い、行ってきます!」
ほとんど逃げるように玄関を飛び出した。
自動ドアを抜け、マンションの外へ出る。
朝の空気に触れても、頬の熱だけは引かない。
数歩歩いたところで、椿は足を止めた。
このまま終わるのは違う。
そう思って、バッグからスマートフォンを取り出す。
指先が一度止まる。
それでも、打ち込む文字は短かった。
【昨日は、ありがとう】
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥がまた落ち着かなくなる。
返信を見る勇気がなくて、すぐにスマートフォンをバッグへしまった。
一方、部屋に残った蓮は、玄関の閉まる音を聞きながら小さく息を吐いた。
その直後、ポケットの中で短い振動が鳴る。
画面を開く。
【昨日は、ありがとう】
たった一行。
それなのに、視線がしばらく画面から離れなかった。
指先には、昨夜触れた熱がまだ残っている気がした。
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