92食目 水面に映る輪郭
リビングへ戻った蓮は、テーブルの上に開きかけた本を一度閉じ、先にスマートフォンを手に取った。
検索欄へ打ち込む。
――発熱 食事 おかゆ
出てきた情報を上から順に確認する。
消化負担を抑えること。
水分量を多めにすること。
味付けは薄く。
必要な情報だけを抜き出し、すぐにキッチンへ立つ。
鍋に水を張り、米を入れる。
火加減を弱め、蓋を少しずらす。
静かなキッチンに、鍋の中で米がほどけていく小さな音だけが残る。
その間にも、意識は何度も隣の部屋へ向いていた。
熱。
呼吸。
意識。
蓋をずらすたび、耳は鍋の音より先に隣の寝息を拾おうとしていた。
椿の状態は、さっきより少し落ち着いているように見えたが、安心するにはまだ早い。
蓮は時折部屋を覗きながら、鍋の中身を木べらでゆっくりとかき混ぜる。
思っていたより時間がかかった。
それでも、ようやく形になったおかゆを小さめの器へよそう。
スプーンを取り出そうと、食器棚へ目を向けた時、未開封のレトルトのお粥が目に留まった。
「......しまった。これを買ってたんだった」
小さくため息をつきながら首を振ると、スプーンを取り、器と一緒に寝室へ持っていく。
ベッドの上で、椿は薄く目を開けた。
「椿。飯、食えるか?」
ベッド脇へ腰を下ろし、器をサイドテーブルへ置く。
椿は身体を起こそうとして、また少しふらついた。
蓮はすぐに背へ手を回す。
「だから無理するなって」
半身を支えたまま、椿の体勢を整える。
蓮は一瞬だけ器へ視線を落とし、スプーンを手に取った。
「持てるか?」
問いかけると、椿は小さく頷いたが、その手にはほとんど力が入っていない。
蓮は短く息を吐くと、器を持ったままベッド脇へ腰を落ち着けた。
「……少しずつでいいから」
スプーンでひと口分をすくい、器ごと椿の手元へ寄せる。
椿はゆっくりと口へ運び、小さく飲み込んだ。
「……おいしい」
掠れた声だった。
その言葉に、蓮の肩からわずかに力が抜ける。
「そうか……ならよかった」
椿が無理をしてまで作ってくれた、自分の食事も、隣へ持ってきていた。
食卓ではなく、ベッドの横。
蓮はその場で自分も箸を取る。
昨夜までの三日間、食事は確かに摂れていた。
栄養も、量も問題なかった。
それなのに。
今こうして椿の隣で口へ運ぶひと口は、驚くほど自然に身体へ落ちていった。
椿が半分ほど食べ終えたところで器を下げ、薬と水を飲ませる。
「これも。飲めるか?」
「……うん」
小さく頷き、椿は薬を飲み込んだ。
その後、器と皿を下げてキッチンへ戻り、簡単に洗い物を済ませる。
すぐにまた部屋へと戻った。
何かするわけではない。
ただ、ベッド脇の椅子へ腰を下ろしていた。
椿は横になったまま、目を閉じている。
熱のせいか呼吸はまだ少し浅い。
蓮は無言のまま、その寝息を聞いていた。
時間だけが静かに過ぎていく。
やがて呼吸のリズムが少しずつ整い、寝息へ変わった。
椿が眠ったことを確認してから、蓮は静かに立ち上がる。
先ほどリビングで見つけた本を手に取り、再び椅子へ腰を下ろした。
表紙に書かれていた文字を、改めて目で追い、小さく読み上げる。
「……食事幸福性」
ページを開く。
ページの端には授業のノートとは違う、椿自身の整理した情報が並んでいた。
摂取カロリー、栄養素、回復効率。
その横に並ぶ別の項目。
食事速度。
会話量。
同席者の有無。
心理的満足度。
蓮の視線が止まる。
ページの端に、小さな文字で書かれていた。
――同じ栄養価でも、誰が作るか、誰と食べるかで摂取感覚は変化する
その瞬間、ここ数日の違和感が一気に繋がった。
三日間、自分で作った食事。
教えてもらったレシピ通りに作った。味も量も問題はなかった。
それでも、満たされなかった。
でも、今朝と今は違う。驚くほどに満たされている。
味そのものではない。
食べ終えた後に残る落ち着きが、昨夜までとは明らかに違っていた。
初めは、単に調理の腕前だと思っていた。
普段慣れ親しんだ味とは少し異なるからだと思っていた。
だが――
「……そういうことか」
そこで思考が過去へと遡る。
ドイツから帰ったあの日、桐生に言われた言葉。
――お邪魔だったか?
あの時、なぜあれほど動揺したのか。
ドイツのメディカルセンターでディーターに言われたこと。
――世間では別の言葉で呼ぶ
意味を理解しきれず、ただただ受け流していただけの言葉。
そして、陽菜に椿をどう思っているか聞かれた時、自分が口にした一言。
――世界で一番信頼に値するパートナー
その時は、純粋に合理的な評価のつもりだった。
だが、今なら分かる。
違和感はきっと、もっと前からあった。
食事の時間。
生活の音。
朝の包丁の音で目が覚めること。
隣にいることが、いつの間にか日常になっていた。
管理士。
栄養の専門家。
確かにそれは間違っていない。彼女の専門性には、とにかく助けられている。
だが、それだけではもう説明できない。
隣で眠る少女は、自分にとってそれ以上の存在になっていた。
そして、つい最近のあのゴール。
誠和との決勝戦の3点目。
あの時の自分の選択が、今ようやく言葉になる。
桐生へ出せば一点だった。
それでも自分は行った。
理由は、先を見据えた話だけではなかった。
蓮の視線が、眠る椿へ向く。
静かな寝息。
熱を帯びた頬。
そして――
あの場面で視界の端に映ったものと同じ髪。
そこで初めて、胸の奥に沈んでいた言葉が浮かび上がる。
「……見てほしかったのか」
小さく、独り言のように零れる。
「椿に」
部屋の静けさの中、その言葉だけが確かな輪郭を持って残った。
隣から聞こえる穏やかな寝息の中で。
蓮は初めて、自分の中でずっと名前を持たなかった感情の輪郭に触れていた。
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