91食目 離せない指先
揺れた皿が手元から滑りかけた瞬間、蓮の腕が先に伸びていた。
皿が床に落ちるよりも早く、その身体を抱き留める。肩へ触れた途端、指先に伝わった熱に思考が一拍止まった。
「……熱いな」
声に出した時には、空いている方の手がおでこへ伸びていた。
掌に触れた温度は明らかに高い。朝、食卓で感じた微かな違和感とは比べ物にならない熱が、皮膚越しに直接伝わってくる。
椿は視線を上げたものの、焦点がわずかに定まっていない。
「……だい、じょうぶ……」
言葉が遅い。
呼吸も浅い。
蓮は眉を寄せたまま、支えていた腕に少し力を入れる。
「大丈夫なら、今ふらつかないだろ」
低く言い切ると、椿は小さく首を振った。
「……ごはん、あと少し……」
視線の先には、食卓へ運ばれかけていた皿。
湯気がまだ薄く立ち上っている。
この状態でもまだ、自分の食事を優先している。
その事実に、一瞬だけ言葉が詰まる。
「大丈夫、もうできてる。
今日はもういいから。部屋に戻って寝てろ」
はっきり告げる。
だが椿は、蓮の腕を支えにしながらも身体をキッチンへ向けようとした。
「……今日の練習……強度、高かったでしょ……?」
途切れがちな声。
次の一歩を踏み出した瞬間、膝から力が抜けた。
ふっと身体が崩れる。
「……っ」
考えるより先に、蓮の腕が背と膝裏へ回っていた。
そのまま身体を抱き上げる。
軽い。
熱を持った身体は思っていたよりもずっと軽く、腕の中へすっぽり収まった。
こんな小さな体なのに、毎日自分の練習量を読み、食事を組み立て、回復まで支えていた。
抱き上げた軽さより、その事実の方が胸に残った。
「れ、蓮くん……?」
「いいから。喋るな」
短く返し、そのまま寝室へ向かう。
廊下を数歩で抜け、ベッドへそっと身体を下ろす。シーツへ沈んだ椿は、いつもキッチンに立っている時よりずっと小さく見えた。
蓮はすぐにもう一度おでこへ手を当てる。
さっきより熱い気がする。
正確な数値は分からない。
だが、このまま食事を作らせていい状態ではないことだけは明白だった。
スーパーの袋を思い出し、すぐにリビングへ戻る。
買ってきたゼリー飲料を一本取り出し、キャップを開けて戻った。
「これ、先に食えるか?」
椿はぼんやりと視線を向け、起き上がろうとしてまた身体を揺らした。
「無理するな」
ベッド脇へ腰を下ろし、片腕で背を支える。
距離が近い。
熱を持った呼気が首元へ触れ、指先にはまだ体温が残っていた。
椿は小さく口をつけ、少しずつゼリーを飲む。
「……ありがと」
掠れた声。
半分ほど飲んだのを確認してから、再び横たわせる。
「悪いな。椿のご飯、今から作るから。食欲はあるか?」
「……すこし」
力のこもっていない声。多少の食欲はある様子に、ひとまず安堵する。
蓮は部屋の隅に置かれたバッグへ視線を向けた。
いつも食事管理の時に持ってきている本。
あれがあれば、最低限何を作るべきかは分かるだろう。
「悪い。バッグ、見てもいいか?」
問いかけると、椿は熱に浮かされたまま小さく頷いた。
「……うん」
蓮はバッグを開ける。
中から出てきたのは、見慣れた栄養学の本とノートだった。何枚もの付箋が貼られ、ページの端には細かな書き込みがびっしりと並んでいる。
自分の身体を支えてきた情報の蓄積。
それを手に取った瞬間、蓮は立ち上がった。
「作ってくる。待っててな」
そう言って部屋を出ようとした、その時だった。
シャツの裾が、後ろへ引かれる。
僅かな力を感じ取った蓮は、振り返る。
椿の指先が、服を掴んでいた。
「……れん、くん……」
熱で滲んだ声。
蓮の思考が、そこで一瞬だけ止まる。
今までなら、食事を作ることが最優先だと即断していたはずだった。
それが最も合理的で、今最も必要な行動だから。
なのに、掴まれたその小さな力を振りほどいて部屋を出ることに、妙な引っかかりが生まれる。
その引っかかりにつける名前を、蓮はまだ持ち合わせていなかった。
振りほどこうと思えば、簡単にできたのに、それでも身体が先に動かなかった。
蓮は静かにベッド脇へ戻り、椿の指へ自分の手を重ねる。
「すぐ戻るから」
自然に、声が柔らかくなる。
「ちゃんと作って戻ってくる。だから少しだけ待ってろ」
その言葉に、椿の指先からわずかに力が抜けた。
蓮はそっと手を離し、静かに部屋を後にした。
リビングに戻ると、椿のカバンから取り出した本とノートをテーブルへ置き、付箋の貼られたページを開く。
そこには、発熱時の栄養補給と消化負担について細かく整理された文字列が並んでいた。
「レシピ本じゃなかった……」
栄養価と適切な食材が分かっても、レシピに落とす術がない。
なにより、専門的な用語が並んだこの本を読み解く時間は今はなかった。
アテが外れてしまった蓮は、他に情報がないかと本を漁る。
だが、蓮の視線はその本たちから少し外れた位置に置いてあったノートに止まった。
そこに挟まれた一冊の本。
普段、椿が持ち歩いているものとは少し違う装丁だった。
栄養学の本でも、授業用のノートでもない。
見覚えのないその少し薄めの本に、蓮の指先が止まる。
蓮は無意識に、それへ手を伸ばしていた。
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