90食目 衝動に駆られて
今日の部活動、蓮の身体は驚くほど軽かった。
足が自然に前へ出る。
視界が広い。
ボールを受ける前に、次の二手先まで線が引ける。
理由は明白だ。
朝食も昼食も、久しぶりに“止まらずに食べられた”。
身体の回復速度が違う。
筋肉の張りも、昨日までより明らかに抜けている。
食事が身体へそのまま変換されている感覚。
いつものコンディションだった。
全国へ向けた強度の高いメニューにも、思考はまったく鈍らない。
終盤の対人練習でも同じだった。
志岐との一対一を思い出させるような狭い局面で、蓮は半歩のステップだけで若葉の重心を外し、中央を割る。
「うわ、今の見えなかったっす……」
若葉が目を丸くしてついてくる。
「今の、足どっちから入ったんすか?」
「右股関節が開いてた。だから左から行けば遅れる」
「いや、その判断が速すぎるんすよ!ってか、見えすぎっす!」
周囲に小さく笑いが漏れる。
キレは完全に戻っていた。
むしろ、ここ数日で一番いい。
ふと、蓮の視線がグラウンド脇へ向く。
フェンスの外。
記録用のバインダーを持った姿が、いつもならある位置。
だが――
今日はそこには誰もいなかった。
周囲を見渡しても、その姿は見当たらない。
ほんの一拍、思考が止まる。
次のボールを受けながらも、視線だけがもう一度外へ流れる。
やはり、いない。
「……?」
違和感が、胸の奥に小さく残った。
給水のタイミングで、若葉がボトルを持ったまま首を傾げる。
「あれ、橘先輩いないっすね」
桐生もタオルで汗を拭きながら周囲を見渡した。
「そういや、今日は見てないな。まだ実習から戻ってないのか?」
蓮はボトルを口に運びながら、朝の会話を思い返す。
『……ちょっと、早く学校に行かないといけないから、先に行くわ』
確かにそう言っていた。
なら、栄養科で何かあるのかもしれない。
「忙しいんじゃないですかね」
自分に言い聞かせるように、短くそう結論づける。
2年生の期末試験前だ。
栄養科にも実習後の整理や提出物はあるはずだ。
そう考えれば、特に不自然ではない。
練習はそのまま終わった。
だが、更衣室で荷物をまとめている間も、胸の奥に残った違和感は消えなかった。
帰り道、校門を抜けたところで、見知った姿が目に入る。
「お、天根くんじゃん」
陽菜だった。
肩にバッグをかけたまま、こちらへ軽く手を上げる。
「ああ、佐伯さんか」
「最近、どう?全国大会も近いでしょー
私たちも演奏で応援に行くからね!」
「調子はいつも通りだ、問題ない」
そのまま少し並んで歩きながら、蓮は何気ない口調で言った。
「そういえば、栄養科って、合宿終わっても忙しいのか?」
「ん?んー、そうでもないかな。合宿終われば、あとはレポート出すくらいだし」
陽菜が少し首を傾げながら答える。
その答えに、蓮の歩みがほんのわずかに止まる。
「……忙しくは、ない?」
「え、うん。どしたの?」
「椿、今日見なかったから、忙しいもんだと」
なぜ今日見かけなかったのか。
胸の奥の違和感が、急に輪郭を持ち始める。
その答えを聞いて、陽菜の表情がわずかに変わった。
「え、ちょっと待って。天根くん、椿から何も聞いてないの?」
「何をだ」
「椿、今日熱で休みだけど……?」
その一言で、朝の会話が一気に繋がった。
早く学校に行く。
食卓を共にしない。
違和感の正体が、遅れて胸に落ちる。
思い返せば、会話の返事も遅れがちだった。
蓮はすぐに踵を返す。
「悪い。先行く」
「え、ちょっ――」
陽菜の声を背に、足はもう走り出していた。
帰り道のスーパーへ飛び込む。
思考は驚くほど冷静だった。
熱なら消化負担は抑える。
水分。
塩分。
エネルギー。
棚からスポーツドリンク、ゼリー飲料、レトルトのお粥、スープ類を迷いなく籠へ入れていく。
まるで、いつも椿が自分にしていることを、そのままなぞるように。
会計を済ませると、そのまま夜の住宅街を走り抜ける。
マンションへ着いた時には、呼吸が少し荒くなっていた。
椿の部屋の前へ立ち、インターホンへ手を伸ばす。
病人食を渡す。
それだけのつもりだった。
だが、指先がボタンに触れる直前で止まる。
――ブゥン。
換気扇の低い音。
耳を澄ませば、隣から聞こえる。
さらに、廊下に微かに漏れ出る出汁の匂い。
「……は?」
一瞬、理解が追いつかない。
次の瞬間には、蓮は自分の部屋の鍵を開けていた。
ドアを開けると、奥からキッチンの明かりが漏れ出ていた。
急いでリビングに向かうと、案の定、そこに椿がいた。
エプロン姿のまま、食卓へ皿を運ぼうとしている。
「……何してる」
思わず声が低くなる。
椿が振り返る。
「蓮くん……?」
顔色が悪い。
明らかに熱がある。
「具合が悪いならちゃんと寝てろ」
そう言いかけた、その時だった。
椿の身体が、ふっと揺れた。
皿を持った手元がぶれる。
「……っ」
蓮は反射的に前へ出た。
皿が落ちるより先に、その身体を支えるために。
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