89食目 埋められた空白
翌日の夕方、更衣室を出た蓮は、階段を降りる前にスマートフォンを開いていた。
汗を拭くより先に、画面を見る。
通知はない。
そのまま、慣れた手つきで今日の練習データを開き、走行距離、心拍推移、メニュー強度をまとめたファイルを送信する。
【ファイルを送信しました】
送信完了の表示を確認した直後、蓮は無意識に画面を見たまま立ち止まっていた。
別に急ぐ話ではない。
合宿研修中なのだから、返信に時間がかかっても不思議ではない。
それでも、親指が画面の上で一度止まる。
やがて短い振動が返ってきた。
【確認したわ】
【今日は昨日より強度高いわね】
【白身魚、小松菜、米がメインね。野菜スープも追加するわ】
【レシピ送る】
続けて画像付きのレシピが送られてくる。
蓮は画面を見ながら、短く息を吐いた。
「……相変わらず早いな」
それだけ呟いてスマートフォンをポケットへしまい、校門を出る。
スーパーで必要な食材を揃え、マンションへ戻る。
玄関を開けた瞬間、昨日と同じ静けさが迎えた。
物音がない。
いつもなら壁の向こうか、キッチンの方から聞こえてくるはずの包丁の音も、換気扇の低い駆動音もない。
蓮は荷物を置くと、そのままキッチンへ向かった。
レシピは昨日より頭に入っている。
米を研ぐ手も、白身魚を焼く火加減も迷わない。
鍋の湯気が立ち、スープの香りが部屋に広がる。
昨日より手際は良かった。
皿へ盛り付けた見た目も、明らかに整っている。
「昨日よりはるかにましな出来だな」
小さく確認するように呟き、食卓へ運ぶ。
椅子を引き、箸を取る。
「いただきます」
一口。
昨日より味は安定していた。
それでも、二口目でまた箸が止まった。
「……?」
味が悪いわけではない。
むしろ昨日より良い。
なのに、食卓の空気だけが妙に薄い。
視線がまたキッチンへ向く。
当然、誰もいない。
昨日より料理は上手くできているはずなのに、食事の時間だけが昨日より短い。
気づけば皿は空になっていた。
必要な量は摂れている。
身体にも問題はない。
だが、食後に残る感覚だけが、どこか落ち着かなかった。
「……あいつ、どんだけ料理うまいんだよ」
自分と彼女の料理への情熱が、如実に表れていることを痛感する。
思い返せば、椿は自分の半分以下の時間で調理を済ませていた気がする。
自分で作れば、これだけ時間がかかる。
それも、レシピを用意してもらった上で、だ。
一から全部自分でやろうとすると、果たしていつ食事にたどり着けるのか。
「……これを、毎日だもんな」
突然始まった、自分だけの生活。
この生活で、少女の献身の凄さを思い知った。
蓮は、ここにいない相手への感謝を言葉にして、片付けを済ませた。
三日目も同じだった。
練習後、ロッカーを閉めると同時にスマートフォンを開く。
通知が入っていないことを確認してから、自分で今日のデータを送る。
もはや動作に迷いはない。
返信が来るまでの数分が、妙に長く感じることにも気づかないまま、蓮は帰路につく。
玄関を開けると、やはり静かだった。
出汁の匂いも、油の弾ける音もない静寂の自宅。
3日目でも、まだ慣れない。
キッチンへ立ち、三日目の夕食を作る。
料理の腕は日に日に上達している気がする。
味も、見た目も、昨日までより明らかに良い。
それでも食卓へ座ると、どうしても視線がキッチンへ向いていた。
「……」
ただ、静かだと思った。
その夜は、いつもより少し寝つきが悪かった。
そして四日目の朝。
――トントン。
小気味よい包丁の音が、眠りの浅い意識へ入り込んでくる。
――ジュッ。
フライパンに食材が落ちる音。
換気扇の低い駆動音。
そのすべてが、聞き慣れた朝の音だった。
蓮の目がゆっくり開く。
数秒遅れて、出汁の香りが鼻を抜けた。
身体を起こした瞬間、胸の奥にあった何かがわずかにほどける。
「……帰ってきたのか」
その一言は、自分でも思った以上に自然に口から零れていた。
制服に着替えてリビングへ出ると、すっかり見慣れた姿がそこにいた。
「……おはよう。
……悪かったわね、慣れないことさせて」
「いや、こちらこそだ。
あそこまで丁寧にレシピにしてくれて助かった」
「……そう。それなら、よかったわ」
そう言うと椿は、食事を皿に盛って食卓に並べる。
「……お弁当、作っておいたから……
持っていってね」
「ああ。ありがとう
椿、朝食食べないのか?」
「……ちょっと、早く学校に行かないといけないから、先に行くわ」
「そうか、わかった。気をつけてな」
「……ええ、いってくるわね」
そう言うと椿は、一足先に学校へと向っていった。
「いただきます」
この3日間、口に出してなかった言葉を放つ。
今朝の箸は、一度も止まらなかった。
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