88食目 最初の欠落
椿が合宿研修へ向かった初日。
放課後のグラウンドは、全国大会へ向けた高い熱量に包まれていた。
インターハイ予選を制してから数日。
チーム全体の空気は、むしろさらに引き締まっている。
ミニゲームのテンポは速い。
若葉の縦パスも、日に日に質を上げていた。
「天根センパイ!」
中央で受けた若葉が迷いなく差し込む。
蓮は半身で受け、そのまま右サイドへ展開した。
右で受けた選手が縦へ運び、中央へ折り返す。
桐生が飛び込む。
ダイレクトのシュートが、ネットが揺らした。
「ナイスっす!」
若葉が思わず声を上げる。
蓮は小さく頷き、すぐに次の配置へ視線を向けた。
チームの循環は良い。
全国へ向けて、積み上げは止まっていない。
若葉もまた、予選前とは別人のように中央で顔を出している。
「今のタイミング、どうっすか?」
「悪くない。相手ボランチの重心が右に寄ってたから、今のタイミングでいい」
「よっしゃぁ!合格貰えたっす!!」
周囲に小さく笑いが広がる。
蓮の身体にも、思考にも、特に違和感はない。
プレーは順調だった。
全国へ向けて必要なものは、確実に積み上がっている。
練習後、更衣室でスマートフォンを開く。
すでに椿からメッセージが届いていた。
【今日の練習内容送って】
短い文面。
いつも通りだった。
蓮はすぐに打ち込む。
【ファイルを送信しました】
返信はすぐだった。
【了解。今日は糖質少し多め。回復優先】
【鶏むね、卵、米300。野菜も取らないとね。すぐにレシピ送るわ】
続けて、写真付きのレシピが届く。
分量も火加減も整理されている。
蓮は画面を見ながら、短く息を吐いた。
「……早いな」
何も問題はない。
いつも通り、必要な情報が返ってくる。
スーパーに寄って買い物を済ませると。マンションへ戻り、レシピ通りに夕食を作る。
米を炊き、鶏むね肉を焼き、汁物を作る。
作業に迷いはなかった。
普段から椿の調理を見てきた分、再現は難しくない。
出来上がった皿を食卓へ運ぶ。
見た目も悪くない。
栄養も最適。
椅子へ座り、箸を取る。
「いただきます」
一口。
味に問題はない。
塩分も適切。
火の入りも悪くないと思う。
椿が整理してくれたレシピだ。栄養面に問題ないだろう。
それでも、二口目で箸が少し止まる。
「……?」
不味いわけではない。
レシピ通りに作ったので、変な味付けはしていないはずだ。
なのに、何かが違う。
蓮はもう一口運ぶ。
やはり、味に問題はない。
それでも、違和感だけが残る。
「なぁ、椿。これって―――」
無意識に視線がキッチンへ向く。
明かりの点いていない、キッチンへと。
そこにはない、いつもならあるはずの姿を探す。
『今日は運動量多かったでしょ』
『水分、ちゃんと取った?』
『食べるの早いわよ』
そうした声が、自然に飛んでくる時間だった。
だが今日は、静かだった。
食卓に音がない。
食器の触れる音だけが、やけに耳につく。
気づけば、いつもより明らかに短い時間で食べ終えていた。
皿は空だ。
必要な量は摂れている。
身体にも問題はない。
それなのに、食後に残る感覚だけがいつもと違った。
「……まぁ、普段料理しない分、こんなもんか」
自分でも理由は分からない。
栄養は足りている。
味も問題ない。
それでも、何かが足りない気がした。
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