87食目 生まれた空白
インターハイ予選優勝から数日が経っても、校内の空気はまだあの熱を引きずっていた。
朝の昇降口を抜けた瞬間から、視線が集まるのが分かる。廊下を歩けば、同級生だけでなく下級生の会話まで一瞬だけ止まり、すれ違いざまに小さく声が漏れる。
「天根先輩だ」
「決勝のあれ、やばかったよな」
「全国、絶対優勝いけるって」
蓮は足を止めない。
かけられた声に軽く視線だけを向けて短く返す。
「ああ」
「ありがとう」
それだけで十分だった。
教室へ入っても同じだ。
席に着くまでに何人かに声をかけられ、試合のことを聞かれるが、蓮の返答はどれも簡潔だった。
昼休み、若葉が購買のパンを抱えたまま教室の入口から顔を出した。
「天根センパイ!今日の放課後、昨日の続きやってもらっていいっすか!」
教室の何人かが振り向く。
蓮はノートから顔を上げた。
「昨日の続き?」
「半歩のやつっすよ!あれ結局まだ分かってなくて!」
若葉の声は相変わらずよく通る。
その勢いに、周囲から小さく笑いが漏れる。
「……分かった。練習後な」
「ありがとうございますっ!」
そういうと、若葉は出していた顔を引っ込めた。
そのやり取りを見ていたクラスメイトに、また小さく笑いが広がった。
予選を終えてから、日常の速度は確かに変わっていた。
だが蓮の中では、もう次へ意識が向いている。
全国へ向けて、積み上げを止める理由はない。
放課後のグラウンドもまた、いつも通りだった。
若葉の縦パスは明らかに質を上げている。
中央で受けたボールを、迷いなく蓮へ差し込む。
蓮がワンタッチで捌き、桐生が落とし、サイドが裏を取る。
決勝の熱を経て、チーム全体の循環速度が一段上がっていた。
「天根センパイ!今のタイミングどうっすか!?」
ミニゲームの合間、若葉が汗を拭いながら駆け寄る。
「悪くない。ただ、相手ボランチの右足が残ってた。あそこは半歩遅らせた方が通るぞ」
「また半歩っすか……」
若葉が頭を抱える。
その横で桐生が笑った。
「柏原、それを直接聞けるだけ贅沢だぞ」
「分かってるっすけど、天根センパイの感覚、超細けぇんすよ!」
蓮はボトルを口に運びながら、ピッチ全体を見渡す。
予選決勝の高揚はもうない。
身体も思考も、すでに日常の速度へ戻っている。
次に必要なのは、再現性だ。
帰宅すると、玄関を開けた瞬間に出汁の香りが鼻を抜けた。
この匂いだけで、身体のどこかが自然に食事の時間へ切り替わる。
リビングへ入ると、キッチンには椿が立っていた。
鍋の蓋を少しずらして湯気を逃がし、フライパンの火加減を見ながら皿を並べる。
無駄のない動き。
もう見慣れた光景だった。
いつもどおりの短い挨拶の後、蓮は荷物を置いて椅子へ座る。
少しして、椿が皿を運んできた。
「今日はいつもより運動量多かったでしょ」
「ああ。全国に向けて強度を上げ始めた」
「だから今日は糖質を少し増やしてるわ。筋疲労を抜きたいから、脂質は抑えてあるわよ」
蓮は皿へ視線を落とす。
白米の量。
汁物の塩分。
肉の部位。
全部が今日の負荷に合わせて調整されている。
椿の管理は、もはや生活の前提になっていた。
食事が半分ほど進んだところで、椿が箸を置いた。
「そういえば、来週から三日間いないわ」
蓮の手が止まる。
「いない?」
「栄養科の合宿研修。泊まり込みの実習よ」
一拍置いて、椿は続けた。
「学校指定の施設で三日間缶詰。家にも戻らないし、学校にも来ないわ」
蓮は短く頷く。
「そうか」
驚きはない。
まず頭に浮かぶのは、その間の管理方法だった。
「飯は自分で作るしかないか……」
「バカね。任せるわけないでしょ。あなた去年私にこっぴどく叱られたの忘れたの?」
去年の春、自分の食事が一蹴された記憶が呼び起こされる。
あれから、もう一年経過していた。
「とは言っても、合宿中ならどうしようもないだろ」
「やりようならいくらでもあるわよ。流石に補食まで用意するのは難しいけど…
その日の練習メニューを送ってくれたら、すぐにレシピにして送るわ」
「体壊すだろ、それ。ただでさえ疲れてるだろうに」
「私は管理栄養士よ?自分の疲労だってコントロールしてみせるわ」
「......わかった。椿が問題ないなら、それでお願いしたい」
蓮の合意を聞いた椿は、すぐにスマートフォンを取り出し、メモを開く。
「じゃあテンプレ作るわね。練習時間、運動量、疲労感、睡眠、空腹感と……」
その後の会話も極めて合理的だった。
三日間会えない。
二人の間で固まるのは感情ではなく管理方法だった。
やがて、テンプレが完成すると、
「できた。毎日練習後、これを埋めて送ってちょうだい。
夕食はレシピ送るから、その通りに作ってね」
「ああ」
椿は視線を皿へ戻しながら続ける。
三日間、椿は完全にいない。
だが管理は続く。
三日くらいなら、変わるものはないだろう。
蓮はそう判断して、何の疑いも持たなかった。
まだ、この時は。
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