83食目 越えてこい
決勝戦当日。
スタジアムには、試合開始前から独特の熱が満ちていた。
観客席はほぼ埋まり、春の陽射しを受けたスタンドには、両校の応援席の色がくっきりと分かれている。吹奏楽の音合わせ、ベンチスタッフの慌ただしい足音、ウォームアップを終えた選手たちがピッチ脇を引き上げていく姿。それらすべてが、決勝の空気を少しずつ濃くしていた。
「今日も天根はベンチか?」
「いや、誠和相手だぞ。ここで使わないわけないだろ」
「でも準決勝まで出てないぞ。試合勘とかあるだろ」
「あいつにそんな概念あんのか?」
スタンドのあちこちから、そんな声が漏れていた。
観客の視線が何度も常盤台ベンチへ向く。
その視線の先にある名前を、誰もが意識していた。
やがてスタジアムの大型モニターに、両校のスターティングメンバーが映し出される。
一拍の静寂。
次の瞬間、スタンド全体にどよめきが走った。
先ほどまでの予想混じりのざわめきとは違う。
決戦の熱が、一気に観客席を駆け抜けていく。
そのどよめきは、選手たちの耳にも届いていた。
誠和のロッカールームには、試合前独特の静けさがあった。
スパイクの紐を締める音。
テーピングを引く音。
誰かが短く息を吐く音。
外の歓声とは切り離された空間で、全員の意識が一つの試合へと集約されていく。
監督がホワイトボードの前に立つ。
すでに書かれているのは常盤台の布陣。
その中央には、一つだけ丸で囲われた番号がある。
「天根は出てくる」
短い一言だった。
だが、その場にいる誰も驚かない。端から全員、その想定だった。
「想定通りだ。ここまで温存してきた理由も分かる」
監督はホワイトボードの中央を軽く叩く。
「だが、やることは変わらない」
志岐が口元を歪める。
「前と同じっすね」
「ああ。同じだ」
監督は頷く。
「天根個人を止めることが目的じゃない」
その一言で空気が締まる。
「あいつを、試合に関与させない」
ホワイトボードの矢印が、蓮の想定位置を囲む。
「受ける前を消す。前を向かせない。視野を広げさせない」
選手たちの視線が一点に集まる。
「前回は、それで機能した」
誰も否定しない。
あの日、蓮は確かに消えた。
誠和の組織守備が中央の流れを断ち切った。
「だが、変に意識しすぎるな。出てくるのは分かっていたことだ。いつも通り、組織で潰す」
志岐が立ち上がり、隣にいるボランチの相方の肩を組む。
「今日も、俺たちが消すっすよ」
その声に、周囲の選手たちも静かに頷く。
だが、その目の奥には前回とは違う緊張もあった。
相手はもう、あの日の常盤台ではない。
対する常盤台のロッカールームには、静かな熱が満ちていた。
誰も騒がない。
だが、張り詰めた集中だけが空間を満たしている。
監督が前に立つ。
「ここまで、お前たちは天根抜きで勝ってきた」
視線が一人ずつへ向く。
「県内レベルであれば、もう崩れない土台はできた」
若葉が無意識に背筋を伸ばす。
桐生は腕を組んだまま前を見る。
「それはお前たちが積み上げたものだ」
監督の声は低い。
「もう、天根がいなければ戦えないチームじゃない」
一拍。
「だからこそ、今日は天根を使う」
空気が一段階締まる。
監督の視線が蓮へ向く。
「天根」
「はい」
「今日はお前を最大限使う。越えてこい」
蓮は強い頷きで返す。そこに迷いはない。
それを見た監督は、ホワイトボードの中央に手を置く。
「誠和は必ずお前を消しに来る」
蓮の視線がわずかに細くなる。
「前回と同じだ。中央を締める。受ける前を切る。お前にボールを触らせない」
そこで桐生が口元を上げる。
「なら、その外側が空くってことですね」
「そうだ」
監督が頷く。
「ここまで作ってきた形がある。お前たち全員が機能して初めて天根が武器になる」
若葉の拳に力が入る。
「今日は天根がいる。だが、頼りすぎるな」
その言葉が全員に落ちる。
「お前たちはもう戦える。その上で、天根という武器を最大限活かす」
監督が最後に言い切る。
「今日、この試合で常盤台の完成形を見せろ」
試合前の入場待機。
トンネルの先にピッチの光が見えていた。
歓声が、壁越しに低く響いている。
蓮は無言で前を見ていた。
その隣に、誠和の志岐が並ぶ。
わずかに顔を横へ向け、口元だけで笑った。
「今日も、消えてもらうっすから」
挑発とも確認とも取れる声。
だが蓮は何も返さなかった。
視線すら動かさない。
ただ前だけを見ている。
その無言が、かえって空気を張り詰めさせた。
入場のアナウンスが響き、両校の選手たちがピッチへ踏み出した。
歓声がより一層大きくなる。
センターサークルに整列した両チームの間に、決勝独特の緊張が流れていた。
両校の配置を確認した主審が、ホイッスルを吹いた。
最初のキックオフから、誠和の寄せは速かった。
中央を締める。
蓮へのコースを切る。
前回と同じ意図が明確に見える。
だが、常盤台ももう前回とは違う。
最終ラインから中央へ。
若葉がボールを受け、一瞬だけ視線を上げる。
見据えるのは、前方にいる蓮。
若葉の足元から放たれたボールが一直線に走る。
速く、鋭いパス。
前回、あの敗北へ繋がった速度とほとんど同じ軌道だった。
観客席の空気が一瞬だけ張る。
だが、今回は違う。
蓮の右足が、わずかに角度を変えた。
勢いを完全に殺し、ボールを足元へ吸い付ける。
そのまま間を置かず、右サイドへ展開。
ボールが鋭く走り、常盤台の攻撃が一気に加速した。
若葉(なんなんすかこの人。俺の語尾と被ってるんすけど)
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