79食目 椿のルーツ
試合の翌日、放課後の教室にはまだ昼間の熱がわずかに残っていた。窓の外ではグラウンドへ向かう運動部の掛け声が遠く重なり、廊下を走る足音とチャイム後のざわめきが、教室の空気を少しずつ外へ押し出していく。
そんな中で、椿だけが席を立てずにいた。
机の上には開いたままのノート。書きかけの文字は途中で止まり、その先には何も続いていない。視線は落ちているのに、見ているのは文字ではなかった。
昨日の試合。
ベンチ外だと分かっていながら、蓮について行った。
必要だったのかと問われれば、即答はできない。
管理のため。
そう言えば理屈は通る。
だが、それだけではないことを、もう椿自身が一番よく分かっていた。
「椿?」
隣の席から声が降ってきて、椿はゆっくり顔を上げた。
陽菜が鞄を机に置いたまま、じっとこちらを見ている。いつもの柔らかい目だが、その奥には観察するような静けさがあった。
「どしたの?もうホームルーム終わったよ?」
「……少し、話したいことがあるの」
陽菜の眉がわずかに上がる。
「わかった。聞かせて?」
いつもの軽快な笑いを浮かべず、陽菜は椅子を引いて椿の正面へ座り直した。教室にはまだ何人か残っていたが、二人の周囲だけが少し静かになる。
椿は一度だけ息を整えた。
言葉にしてしまえば、もう戻れない気がした。
けれど、昨日から胸の奥で引っかかり続けているものを、このまま抱えたままにする方が苦しかった。
「……私、蓮くんのこと、好きみたい」
言い切った瞬間、自分の声が思ったより静かだったことに気づく。
陽菜は数秒だけ瞬きを止め、それから口元を緩めた。
「ようやくかぁ」
あまりにも自然な返しに、椿は思わず顔を上げた。
「……驚かないの?」
「驚かないよー。むしろ、やっとかぁって感じ」
陽菜は頬杖をつきながら笑う。
「だって椿、去年の途中からもう分かりやすかったよ?」
「そんなこと……」
「あるある。本人たちだけが気づいてなかったんだよ」
あっさり言われて、椿は言葉を失った。自分ではずっと理性の内側に置いてきたつもりだった感情が、外から見ればそんなに明確だったのかと思うと、少しだけ居心地が悪い。
だが、今日話したいのはそこではない。
椿は視線を机に落とし、指先でノートの端を整えた。
「昨日……蓮くん、試合に出なかったの」
「うん」
「ベンチにも入ってなかった」
「そうなんだ、めずらし」
「それなのに、私……ついて行ったの」
陽菜の表情は変わらない。続きを促すように静かに待っている。
「管理のためって言ったの。出ない日ほど消耗の種類が読みにくいからって」
そこまで言って、椿は小さく唇を結ぶ。
「でも、それだけじゃなかった」
昨日の朝、門の前で言った言葉が蘇る。
――あなたが何を見るのか。
あれは管理のためだけではない。
もっと個人的で、もっと説明しにくい感情だった。
「見ておきたかったの」
「何を?」
「彼が、試合に出ない日に何を見るのか。何を考えてるのか」
「うん」
「でもそれって、管理としては合理的じゃないの」
椿は自分でも驚くほど素直に言葉を零していた。
「必要以上に知りたいと思った。必要以上に見ていたいと思った。そういうのって……もう管理じゃないでしょ」
教室の外から吹き込む風が、机の上のプリントをわずかに揺らす。
椿はその揺れを見ながら、胸の奥に沈めていた本音を少しずつ掬い上げた。
「怖いの」
陽菜の視線が柔らかく細くなる。
「何が、怖いの?」
「……この気持ちが、管理を狂わせること」
言葉にした瞬間、その輪郭がはっきりした。
そうだ。自分が本当に恐れているのは、彼に恋をしたことそのものではない。
「感情が入ったら、判断が鈍るかもしれない」
椿の声は静かだった。
「必要以上に甘くなるかもしれない。逆に、感情を意識しすぎて厳しくしすぎるかもしれない」
蓮にとって最善ではなくなる。
それだけは、何よりも避けたかった。
「私は、彼のパフォーマンスを上げるために管理してるのに……そこに私情が混ざったら、それはもうノイズでしかないわ」
陽菜はすぐには口を挟まなかった。
椿の言葉が最後まで落ちるのを待っている。
「だから」
椿は一度だけ目を閉じる。
「この気持ちには、蓋をしようと思うの」
言葉にした途端、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「なかったことにした方がいいって思った。そうすれば、今まで通り管理できるから」
陽菜はその言葉を聞いても、すぐには答えなかった。
しばらくしてから、頬杖を外し、まっすぐ椿を見た。
「好きになっちゃったから、機能がぶれるって思ってるの? ……逆じゃない?」
陽菜の言葉に伏せていた睫毛が上がる。
「好きだからこそ、もっと良くしたいって思うんじゃないかな。
……それって、天根くんにとって悪いこと?」
陽菜の言葉が、胸の奥で静かに残る。
ふと、冬休みに父が蓮へ向けて言っていた言葉が蘇る。
『椿はあれでいて世話焼きだからね。尽くしたいタイプなんだよ』
あの時は、ただの家族の軽口だと思っていた。
けれど、違ったのかもしれない。
昔からそうだった。
誰かのために、より良くしたいと思うこと。
そのために手を動かすこと。
「そう……だったのね……」
思えば、母もそうだった。
母はいつも、家族の変化を誰より早く見抜いていた。
賢崇の疲れ、椿の食欲、季節の変わり目の体調。
理屈や合理だけでは届かない部分にまで、母は自然に手を伸ばしていた。
だから、そんな母に料理を習いたいと思った。
ーー誰かのために、より良いものを作りたい。
その想いの先に、今の自分はいた。
「……やることは変わらない」
「椿?」
椿のこぼした一言に陽菜が首をかしげる。
「……陽菜、ありがとう。おかげで少し…ううん、かなりすっきりしたわ」
言葉にしてみて、胸の奥にあった重さが驚くほど軽くなっていることに気づく。
恋をしたから、管理が壊れるわけじゃない。
むしろ、その想いの根にあったものこそ、最初から自分をここまで連れてきた。
誰かのために、より良いものを作りたい。
その気持ちは、ずっと変わっていない。
その対象が初めてできただけだ。
「顔、全然違うね」
陽菜がくすりと笑う。
「さっきまで、世界終わりますみたいな顔してたのに」
「……そんな顔してた?」
「してたしてた」
椿は小さく息を吐き、それからほんの少しだけ笑った。
肩の力が抜けると、視界が妙に明るい。
窓の外では、夕方の光が校舎の壁を斜めに染め始めていた。
もうすぐ部活の時間だ。
今日も蓮の食事を考える。
トレーニング量、筋疲労、糖質量、タンパク質のタイミング。
やることは何も変わらない。
けれど、その手元にある想いの輪郭だけが、昨日までとは少し違っていた。
椿は鞄を持って立ち上がる。
「行くの?」
「ええ。今日のメニュー、少し組み直したいの」
「早速?」
「当然でしょ」
そう言った声は、昨日までより少しだけ柔らかかった。
陽菜はそんな椿を見上げて、満足そうに笑う。
「頑張ってね、橘管理士」
「……そこは、ただの椿でいいわよ」
言ってから、自分で少しだけ驚く。
陽菜はすぐにその変化を見逃さなかった。
「へえ?」
「もう、行くわ」
これ以上何か言われる前に椿は教室を出る。
廊下を歩きながら、胸の奥に残るのはもう迷いではなかった。
好きだからこそ、もっと良くしたい。
その想いは、ノイズなんかじゃない。
それはきっと、自分がずっと大切にしてきたものの延長線上にある。
夕方の光の差す廊下を抜け、椿は足を速めた。
今日の献立を、少しだけ見直そう。
そしてその先にあるのは、次の試合、その次の成長、もっと先の未来。
蓮のために。
そう思った瞬間、もうその言葉を否定する必要はなかった。
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