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78食目 足りない形

 試合当日の朝、橘家のキッチンにはいつもより少しだけ早い時間の静けさが残っていた。窓の外は薄曇りで、春先の光は白く広がるだけでまだ温度を持たず、コンロの上で湯気を立てる味噌汁と焼き上がった鮭の匂いだけが室内を先に起こしている。蓮は椅子を引いて席につくと、並べられた朝食へ一度視線を落とし、向かいで手際よく弁当箱の蓋を閉めている椿を見た。


「分かってると思うけど、今日は出ない」


 椿は手を止めずに、「ええ」とだけ返す。


「ベンチにも入らない」


「それも聞いてるわ」


 言葉は淡々としていたが、輪ゴムをかける指先だけが少し強く動いた。蓮はそれを見てから味噌汁に口をつける。


「だから、今日は来ないだろ」


 椿はようやく顔を上げた。目が合う前に一度だけ弁当箱を自分の方へ引き寄せ、そのまま当然のように言う。


「行くわよ。試合に出ないからって、あなたが動かない保証がないもの」


 椿は言い切ってから、自分の前の皿に箸を伸ばした。「それに」と続ける声は平坦で、そこに余計な温度を乗せないようにしているのが分かる。


「試合に出ない日ほど、消耗の種類は読みにくいの。立ちっぱなしになるかもしれないし、考え続けるかもしれないもの」


「そうか」


 蓮は鮭をほぐしながらそれ以上は言わなかった。来るなと言えば来ない相手ではなく、来る理由もまた、理屈の上で成立している。なら来るんだろう。

 現に椿は何もなかったように味噌汁の椀を取り、いつも通りの速度で食べ始めている。

 けれど、蓮がご飯を半分ほど進めたところで、椿は不意に視線を上げる。


「不満はないの?試合に出ないことへの」


「ないといえば嘘になるが、今回は納得の行く理由だからな」


「そう」


 椿は一瞬だけ箸先を止めた。


「あなたが出ない試合を、ちゃんと見るのは初めてだわ」


 蓮は返事の代わりに味噌汁を飲んだ。椿もそれ以上は言わず、食卓には箸の触れる音だけが残る。出ない試合だと自分で言っておきながら、そう口にされると妙に輪郭が立つ。

 今日、自分はピッチの外にいる。その現実が椿の一言で改めて定着した。


 会場へ向かう道中、椿は隣を歩きながらも必要以上に話しかけてこなかった。道幅の狭い歩道では自然と肩の距離が近づき、横断歩道では人の流れに合わせて一歩前へ出る蓮の背に椿が半歩遅れて続く。試合の日の朝独特の、まだ何も起きていないのに体の内側だけが先に準備を始めている感覚は、出場の有無とは別にあるらしい。蓮はバッグの肩紐を直し、会場の門が見えたところで隣を見る。


「ほんとに行くのか?まだ引き返せるぞ」


「引き返す理由がないわ」


「俺はベンチ外だぞ?」


「知ってる」


「ならなおさら……」


 椿はそこでようやく蓮の方を見た。いつもなら分析か反論を先に置く目だったが、今朝は少し違う。

 何かを言いかけてやめ、その代わりに整えた答えを出す。


「出ないなら、なおさら見ておきたいの。あなたが何を見るのか」


 言い終えたあと、椿は自分でも踏み込み過ぎたと思ったのか、すぐに視線を前へ戻した。「管理の参考になるから」と遅れて足された言葉は明らかに後付けだったが、蓮はそれに気づかない。ただ、「そうか」とだけ返し、門をくぐった。




 ロッカールームには既にほとんどの部員が集まっていた。スパイクの紐を締める音、テーピングを引く音、誰かが短く交わす確認の声。その奥、ホワイトボードには前日のミーティングで共有されたメンバー表がそのまま貼られており、先発十一人とベンチ入りメンバーのプレートが並んでいる。そこに天根蓮の名はない。誰もそれに驚きはしなかったし、今さら見直すような空気もない。すでに知っている現実を、ただ試合前の時間の中で改めて引き受けているだけだった。


 部員たちはそれぞれの位置で監督が入ってくるのを待つ。


 やがて監督が入室し、全員の視線が自然と前へ揃った。監督はホワイトボードを一度見てから、いつもより少し低い声で口を開く。


「メンバーは昨日伝えた通りだ」


 短い確認のあと、あえて間を置く。


「天根は今日、ベンチにも入れない」


 誰も動かなかった。知っていたことだ。

 監督は視線を一人ずつに配るようにして続けた。


「理由も、昨日話した。だが、試合前にもう一度だけ言う」


 ロッカールームの空気がさらに締まる。


「お前たちは、無意識に天根を見ている」


 桐生はわずかに顎を引いた。他のメンバーも、否定はしない。監督はその反応を確認するように言葉を重ねる。


「苦しい時、最後はあいつが何とかすると思っている。詰まった時、あいつに預ければ次が出ると信じている。それ自体は悪いことじゃない。実際、天根はそれだけの武器だ」


 そこまで言ってから、監督はボードの端を指先で軽く叩いた。


「だが、現実として、去年の公式戦で天根を欠いた試合は全て負けている」


 数字として突きつけられた事実は重かった。誰もが覚えている結果でも、こうして並べ直されると逃げ場がない。


「天根が武器なのは変わらない。だが、その武器を最大限活かすために必要なのは、まず天根がいなくても勝てる土台だ」


 監督の声は大きくない。大きくないからこそ、一つも逃さず耳に入る。


「今日やるのは、天根抜きで勝つことだ。あいつを外して弱くなるなら、それは強いチームじゃない。あいつを武器として活かすためにも、まずはお前たち自身が相手を殴れるだけの形を作れ」


 数秒の静寂のあと、桐生が口を開いた。


「やりましょう」


 短く、だが迷いなく言う。その声を合図にするように、他の選手たちも順に返事を重ねた。大きくはないが、先ほどまでより芯の入った声だった。


 試合が始まると、常盤台は立ち上がりから悪くなかった。

 最終ラインからの前進は整理され、ボランチは相手の一列目を外しながら前を向けている。サイドへ逃がす判断も遅くない。前半十五分までは、むしろ常盤台の方がボールを握れていた。


 ただ、握れていることと相手を壊せていることは別だった。


 三列目までは運べる。サイドの深い位置も取れる。だが、そこから先、中央へ差し込む最後の一本が入らない。クロスは上げられても狙いどころがぼやけ、ミドルは打てても相手のブロックに触れる。崩しきる手前で一度ずつ遅れ、その遅れを相手守備陣に回収される形が続いた。


 スタンドから見ていた椿にも、それは分かった。常盤台は戦えている。押し込まれているわけではない。けれど、いつも見ている点が入る絵が鮮明にならない。椿は隣で腕を組んだまま試合を追う蓮をちらりと見た。表情は動かない。

 それでも、目だけはずっとピッチ上の配置と距離を拾っている。右SBが一歩高い、トップが降り過ぎている、左のインサイドの立ち位置が半歩内側。そういう修正点をすでに頭の中で並べている視線だった。


「険しい顔してるけど、いい感じなんじゃないの?」


 椿が小さく言うと、蓮は目を離さないまま答える。


「ああ、相手のミドルサードには入れてる。

 ……でも、その先で止まってる。三人目が噛み合ってないんだ。前の枚数が揃う前に入れてる時もあるし、逆に待ちすぎて閉じてる時もある」


 説明の中に試合の停滞がほぼそのまま入っている。椿は口を閉じ、もう一度ピッチを見る。蓮がいなくても進める。だが、蓮がいないからこそ整いきらない。その差は派手ではなく、だからこそ埋めにくいのだと少し遅れて理解した。


 後半に入ると相手も修正を加え、常盤台のボランチへの圧力が強くなる。受ける前の首振りが半拍遅れた選手から順に追い込まれ、縦へのスピードは落ちた。それでも桐生が収め、二列目が拾い、何度かゴール前まで迫る。

 しかしあと一歩が届かない。後半二十三分、右からの折り返しに逆サイドが飛び込むが僅かに合わず、後半三十一分には中央で奪ってからのショートカウンターでは最後のスルーパスが長くなってしまう。


 惜しい場面はある。だが惜しいまま終わる。監督がロングコートのポケットに手を入れたまま動かずに見ているのが、かえって試合の現実をはっきりさせていた。


 そして後半三十五分、交代ボードが上がる。


「丸を下げる。柏原!入るぞ!」


 呼ばれた若葉の背中が一瞬だけ強張り、それでもすぐに返事をしてライン際へ走る。


 椿が息を整えるように小さく胸を上げた横で、蓮の視線がわずかに細くなる。

 若葉は入ってすぐ、最初のプレーで横パスを受け、体を開いた状態から逆サイドへ長めのボールを通した。距離のある展開だったが、軌道は素直で、受け手の足元へほとんど誤差なく届く。次のプレーでも、相手に寄せられながら斜め前の足元へ短い楔を刺し、その選手が落としたところをもう一度受け直してサイドへ振った。精度だけ見れば十分すぎる。実際、スタンドの保護者席からも小さなどよめきが上がった。


 だが蓮は二本目のパスを通したところで、低く呟いた。


「……もったいないな」


 椿がすぐ横を向く。


「何が?」


「あれだけ通せるのに、出しどころが少なすぎる」


 若葉は正確だった。正確であるがゆえに、選んでいる先の少なさが目立つ。安全な場所には通せる。指定された位置にも通せる。けれど、相手を一枚剥がした先、意図を一つ進める場所への視線がまだ足りない。本人の問題だけではない。周囲もまた、若葉の武器を受ける形を持てていない。


「使い方も、使われ方も、まだ狭い」


 蓮の言葉通り、若葉はその後もミスなくボールを動かしたが、試合をひっくり返す一手には届かなかった。終盤、常盤台は左からの崩しでゴール前へ人数をかけるが、最後のシュートは相手GKに弾かれる。こぼれ球に詰めた二人目も寄せ切れず、ホイッスルまでの残り時間が容赦なく減っていく。ベンチ前では監督が最後まで声を飛ばさず、ただ腕時計とピッチを交互に見ている。


 結局、前半終了間際に失った一点を取り戻せないまま、長い笛が鳴った。

 選手たちの肩から一斉に力が落ちる。


 敗戦。


 大崩れではない。試合にならなかったわけでもない。むしろ勝てる時間帯はあった。それでも勝てなかった。その事実だけが、スコア以上の重さで残る。


 試合後のミーティング、ロッカールームは試合前よりも静かだった。誰も俯いてはいないが、前を向くにも少し力がいる、そんな空気だった。監督は全員が座ったのを確認してから、感情を強く出さない声で言った。


「顔を上げろ」


 何人かが息を整え、視線が上がる。


「今の試合で分かったことは多い。前進できた。守備も崩れなかった。天根がいなくても、試合そのものは作れた」


 そこまでは事実の確認だった。そして監督は次の一言で、その事実を逃げ道にさせなかった。


「だが、勝てなかった」


 沈黙が落ちる。


「これが、我々の現在地だ」


 その言葉は責めるためではなく、数字や感情の濁りを一度すべて剥いだ先の、冷たい座標のように聞こえた。監督は続ける。


「悲観する必要はない。だが、足りないものを見誤るな。天根がいれば勝てた、で終わるなら去年と同じだ。そうじゃない。天根がいなくても勝ち切る形を、今日ここから作る」


「今日の負けは、次の練習でしか返せない。各自、自分に足りないものを言語化しておけ。明日から修正していくぞ」


 ミーティングが終わり、選手たちが無言のまま立ち上がる。スパイクを脱ぐ音、テープを剥がす音、その一つ一つに試合の終わりが混じっていた。


 その頃、スタンド組の解散を告げられた蓮たちは、再び並んで歩いていた。二人の間に、特に会話は生まれていない。

 その沈黙に耐えかねたのか。椿は小さく頷き、それから少しだけ声を落として口を開いた。


「……今日、来てよかったわ」


 蓮が視線を向けると、椿はすぐに言い直す。


「あなたが何を見るのか、少し分かったから」


「……?そうか」


 それは今朝の続きのようで、けれど朝よりも誤魔化しが薄かった。

 椿は、返ってきた短い言葉だけで十分だとでもいうように歩き出し、蓮も隣へ並ぶ。負けた日の帰り道なのに、足取りが止まらないのは、今日得たものが敗戦だけではなかったからだ。


 会場の外へ出るころには、空は朝より少しだけ明るくなっていた。

 常盤台はまだ、蓮がいなくても勝ち切れるチームではない。蓮は前を向いたままバッグの肩紐をかけ直し、次の練習で修正すべき点をすでに頭の中で並べ始めていた。椿はその横で何も言わずに歩き、ただ、蓮が一度も立ち止まらないことだけを確かめるように同じ速度を保っていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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