表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/15

7食目 領域外のサポーター

 翌朝、蓮が玄関の扉を開けるのとほぼ同時に、隣の402号室のドアが開いた。

 待ち構えていたのかと思うほどのタイミングで現れた椿は、すでに制服の上からエプロンを外した後のようで、手にずっしりと重そうな保冷バッグを提げている。


「おはよう。はい、これ。今日のあんたの『燃料』」


「……おはよう。これは?」


「昼食。学校の購買のパンとか、揚げ物だらけの学食なんて論外でしょ。あんたに必要な糖質のタイミングと脂質のコントロールを考えたら、こうするしかないの。保冷剤多めに入れてるから、ちゃんと涼しいところに置いておいてよ」


 手渡されたバッグを受け取ると、昨夜の夕食時よりもさらにシビアな、プロの「道具」のような重みを感じた。蓮が中を覗こうとすると、椿は「開けるのは昼までお預け」と釘を刺すように人差し指を立てた。


「いい? 自分の身体は自分だけのものじゃないって自覚しなさい。……じゃ、学校でね」


 嵐のようにそれだけ言い残して、椿はエレベーターへと向かっていった。一人残された廊下で、蓮は保冷バッグの取っ手を握り直し、小さく息を吐く。

 誰にも干渉されないはずだった一人暮らしは、開始数日で「徹底管理」という未知の領域へと突入していた。


 昼休み。常盤台高校の教室は、空腹を満たそうとする生徒たちの喧騒に包まれていた。

 蓮が自席で保冷バッグを開けると、周囲の視線が自然と集まった。中から出てきたのは、三つのタッパーに分けられた、驚くほど彩り豊かな食事だった。


「……これ、昨日の余りじゃないな」


 メインは、蒸し器で余分な脂を落としたであろう鶏肉と白身魚の和え物。そこに、鉄分を補強するための小松菜のお浸し、さらにはエネルギー効率を考えた特製の十六穀米が、計算し尽くされた配置で詰められている。

 周囲の生徒たちがコンビニの菓子パンや茶色一色の弁当を頬張る中、蓮の机の上だけが、まるでトップアスリートのキャンプ地のような異彩を放っていた。


(……美味いな。それに、食った後の胃の重さがまったくない)


 ただ空腹を満たすための「餌」ではない。午後の練習に向けて、細胞の一つ一つに必要なエネルギーが充填されていくような感覚。蓮は、隣に住む少女の「プロ意識」の凄まじさを、喉を通る食材の温かさとともに咀嚼していた。


 放課後。常盤台高校の広大な人工芝グラウンド。

 百人を超える部員たちの怒号と、ボールが空気を切り裂く音が響く中、蓮はピッチの中央でその存在感を放っていた。


 しかし、そんな蓮を、ピッチの外から射抜くような視線があった。


 グラウンドを囲むフェンス越し。部活動の関係者でも、熱心なファンでもない、一人の女子生徒がノートを片手に立ち尽くしている。

 椿だった。

 彼女は時折、ストップウォッチを操作し、蓮がダッシュを繰り返すたびに鋭い視線でノートにペンを走らせる。


(……気温二十二度。湿度は低め。前半の運動量は想定内だけど、右サイドへの展開が多い。……あ、今、少し左膝を庇った? 疲労の蓄積か、それとも微調整が必要な段階か……)


 椿にとって、これは放課後の「観戦」などという甘いものではなかった。

 これから作る夕食のメニューを決定するための、シビアな『現場検品』だ。

 サッカーの戦術は分からない。オフサイドのルールだって怪しい。だが、その身体が今何を欲し、どの筋肉が悲鳴を上げているのか。彼女の眼には、蓮の背中を通して、その体内組織の叫びがリアルタイムの数値として映し出されているようだった。


「……今日のメインは、カリウム重視。マグネシウムも足さないと足がつるわね」


 独り言を呟きながら、鬼気迫る表情で書き込む椿。通りかかる他部の生徒たちが、その異様な迫力に思わず道を開けるほどだった。


 ふと、プレーの合間に、蓮がグラウンドの外へと視線を向けた。

 目が合った瞬間、椿は「見てないわよ」とでも言うように、不自然にノートを閉じて空を見上げた。


(……あいつ、あんなところまで。……本気なんだな)


 自分を『最高の被検体』だと言った、昨夜の言葉が脳裏をよぎる。

 自分を追い込む孤独な戦いだと思っていた、プロへの道。

 けれど今、ピッチの外には、自分以上に自分の身体のことを考えている、最高に頼もしい『スタッフ』がいる。


 蓮は再び前を向くと、今朝の昼飯で得たエネルギーを全身に循環させるように、芝の上を力強く蹴り出した。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


「おもしろい」「続きが気になる」と思っていただけたら、ぜひ下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援をお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ