8食目 背中越しの診断
放課後のグラウンドに、練習終了を告げるホイッスルが響いた。
人工芝の上に、部員たちの荒い呼吸と、スパイクの音が残る。蓮はユニフォームの裾で額の汗を拭い、大きく息を吐いた。
フェンスの外では、椿がノートを閉じていた。
さっきまでペンを走らせていた手が止まり、彼女は蓮が何かを言うより先に、くるりと背を向ける。
「……一言もなしか」
蓮は小さく呟いたが、声はかけなかった。
周囲には、まだダウンを続ける部員たちがいる。グラウンドの外にも、見学していた生徒が何人か残っている。昨日、取引を結んだばかりの相手と、練習後にフェンス越しで話し込む必要はない。
椿は一度も振り返らず、校門の方へ向かっていく。
ただ、去り際に自分のバッグを一度だけ、軽く叩いた。
それだけで、蓮には意味が分かった。
買い物に行く。
夕飯の材料を買う。
たぶん、そういうことだ。
蓮は左膝に氷を当て、言われていた通りにケアを済ませた。昨日なら少し急いでいたかもしれない。けれど、今日の夕飯は、今の練習を見た椿が考える。
それなら、こちらが勝手に雑なことをする理由はない。
部室へ戻る途中、同じ一年の部員が声をかけてきた。
「天根、今日キレてたな」
「そうか?」
「後半も落ちなかったじゃん。すげえな」
蓮は少し考えてから答えた。
「最近、食事を変えた」
「ああ、昼の弁当。あれ、すごかったな」
「そうだな」
蓮は頷いた。
弁当は、確かに違った。
味だけではない。練習に入った時の身体の重さがなく、途中で妙な空腹に引っ張られることもなかった。
それがすべて食事の影響だとは言わない。
けれど、少なくとも無関係ではないことは確かだった。
十五分後、蓮は駅前のスーパーにいた。
夕飯時が近い店内は、買い物かごを持った客で混み合っている。青果コーナーの照明の下を進むと、奥の方でパプリカを手に取り、角度を変えながら見比べている椿がいた。
蓮はその隣に立ち、近くの棚に並んでいた野菜へ視線を向ける。
「早かったわね」
椿はパプリカを見たまま言った。
「ケアはした」
「左膝?」
「ああ。アイシングもした」
「ならいいわ」
椿はパプリカを一つかごに入れ、次に小松菜へ手を伸ばした。
「練習の後半、右足の踏み込みが少し甘くなってた」
蓮は思わず椿を見る。
「よく見てるな。サッカーは詳しくないんだろ」
「詳しくはないわよ。誰がどこへ走るべきかまでは分からない。でも、足の出方と止まり方くらいは見える」
椿は小松菜の葉先を確認し、状態の良いものを選んでかごに入れた。
「今日は気温も少し高かったし、汗の量も多かった。後半、ふくらはぎの張り方が変わってたから、水分とミネラルの戻し方は考えた方がいいわね」
「そこまで分かるのか」
「分かることだけ見てるの。サッカーの中身まで見ようとしたら、たぶん間違えるから」
椿はそう言って、精肉コーナーへ歩き出した。
蓮は少し後ろからついていく。
椿の手は迷わない。豚肉のパックを確認し、レバーの並んだ棚で一度止まり、表示を見てから一つをかごに入れる。次にきのこ、果物、味噌の棚へ移る。
どれも、蓮が一人なら選ばなかったものばかりだった。
「今日はカリウムとマグネシウム。あと、汗をかいた分の塩分と水分を戻す。タンパク質はいつも通り必要だけど、それだけ見ても駄目」
「タンパク質だけじゃないんだな」
「当たり前でしょう。筋肉だけでサッカーしてるわけじゃないもの」
椿は買い物かごを蓮の方へ押し出した。
「はい。持って」
「あ、そうだな。悪い」
蓮はかごを受け取った。
思っていたより重い。
豚肉、レバー、野菜、果物、味噌。さっきまで自分が流した汗を戻すためのものが、かごの中に詰められている。
昨日までの蓮なら、ここにあるものの大半を選ばなかった。
必要だと聞けば、必要な栄養素の名前だけを拾っていたと思う。けれど今は、食材の種類にも、量にも、組み合わせにも理由があることだけは分かる。
「......ありがと。目立つから、さっさと会計しましょう」
「ああ」
椿は周囲を軽く見てから、レジへ向かった。
蓮は少し後ろを歩く。
近すぎず、離れすぎず。
学校で必要以上に話す理由はない。スーパーでも、同じ高校の生徒に見られれば余計な話になるかもしれない。
ただ、今の二人にあるのは、そういう話ではなかった。
練習を見て、消耗を確認する。
必要なものを買い、作り、食べる。
それだけだった。
レジを通り、自動ドアを抜けると、駅前通りには夕方の光が残っていた。
椿は前を歩きながら、袋の中身を確認する。
「帰ったらすぐ作るわよ。練習後の回復は、後回しにしない方がいいから」
「分かった」
「その前に水分。帰るまでに少し飲んで」
「ああ」
蓮はレジ袋を持ち直し、もう片方の手でペットボトルを取り出した。
中に入っているのは、ただの食材ではない。
今の自分の身体に必要なもの。
今日の練習で減ったもの。
明日も走るために戻すもの。
そう考えると、レジ袋の重さは昨日までとは違って感じられた。
「……ありがとう」
蓮は短く言った。
椿は前を向いたまま、少しだけ肩をすくめる。
「まだ食べてないでしょう。お礼は、ちゃんと食べてからにして」
「ああ」
蓮は水を一口飲み、重いレジ袋を提げ直して、その少し後ろを歩いた。
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