9食目 見つめる先
マンションに戻ると、椿は四〇一号室のキッチンへまっすぐ向かった。
蓮が玄関の鍵を閉める間に、椿は買ってきた食材を作業台に並べ、冷蔵庫から使うものを取り出していく。豚肉、レバー、パプリカ、小松菜、きのこ、味噌。スーパーでは重さにしか感じられなかったものが、キッチンに置かれると、少しずつ夕食の形を取り始めていた。
「突っ立ってないで、先に着替えてきて」
「手伝わなくていいのか?」
「今のあなたの仕事は、余計に動かずに身体を休めること。練習後なんだから、まず心拍数を落として。こっちは十五分くらいで形にするから」
「分かった」
「あと、水。さっき飲んだけど、もう少し。少しずつでいいから」
「ああ」
蓮はペットボトルを手に取り、ひと口飲んでから寝室へ向かった。
汗を吸った練習着を脱ぎ、部屋着に着替える。身体は重い。けれど、昨日までのように空腹で意識が引っ張られる感じはない。疲労はあるが、底が抜けるような感覚ではなかった。
リビングへ戻ると、キッチンから包丁の音が聞こえていた。
トントントン、と一定のリズムで野菜が切られていく。火にかけた鍋から湯気が立ち、味噌の匂いが部屋に広がり始めている。
蓮は空いたスペースにヨガマットを敷いた。
今日の練習で気になったのは、右サイドで受け直す時の身体の向きだった。相手の寄せを外す一歩目に、ほんの少しだけ遊びがある。体幹の固定が遅れたのか、疲労で踏み込みが甘くなったのか、まだ分からない。
分からないなら、確認するしかない。
蓮はマットの上で姿勢を作り、ゆっくりとプランクに入った。
肘をつき、爪先を立てる。
首から背中、腰、踵までを一直線に保つ。
呼吸を細くし、腹の奥へ力を入れる。
十秒。
二十秒。
三十秒。
キッチンの包丁の音が止まった。
「ちょっと」
椿の声が飛んできた。
「何してるの?」
「体幹の確認」
「確認?」
「今日、切り返しの時に少しズレた。原因を見てる」
「それ、今やる必要ある?」
「今の方が、疲労が残っている状態で確認できる」
「はぁ......」
椿は菜箸を持ったまま、カウンター越しに蓮を見た。
「やるなら先に言いなさいよ。今の献立、練習後は休む前提で組んでたの。追加で負荷をかけるなら、夕食の組み方を少し変えないといけないでしょう」
「そうなのか」
「そうなのか、じゃないわよ。あなたのやることに合わせるんだから次からは言ってちょうだい。やるなとは言わないから」
「すまん」
蓮は姿勢を崩さずに謝った。
椿は一度深く息を吐き、冷蔵庫を開けた。
「で、何分やるの?」
「あと二セット」
「時間は?」
「合計で五分くらい」
「わかったわ。......なら、卵を足そうかしら。あとパプリカも少し残しておくつもりだったけど使おう」
椿は手を止めず、小さく修正案を呟いていた。
卵を取り出し、パプリカを切り、鍋の火加減を変える。さっきまでの手順を崩さず、追加された蓮の行動に合わせて中身を組み替えていく。
蓮はマットの上で二セット目に入った。
腹の奥の筋肉が熱を持つ。
肩が少し震える。
疲労が残った状態で姿勢を保つと、右側の支えがわずかに遅れるのが分かった。
たぶん、そこだ。
そう思ったところで、椿の声がもう一度飛んできた。
「終わったらすぐ食べられるようにして。終わってからだらだらしない」
「分かった」
十五分ほどで、食卓には夕食が並んだ。
豚肉と野菜を使った主菜。
レバーを少し加えた小鉢。
小松菜ときのこの味噌汁。
少し多めによそわれたご飯。
豪華ではない。けれど、練習後の身体に入れるためのものとして、ひとつずつ役割があるのは分かった。
「今日の分は、さっきの追加分も込みで調整したつもり。足りなかったら言って。無理に残すのも、無理に詰め込むのもなし」
「ああ」
「あと、レバーは少しだけ。今更だけど好き嫌いは無いわよね?アレルギーは前聞いたけど」
「好き嫌いもない」
「そう。いいことね」
蓮は箸を取った。
味噌汁を口に運ぶと、温かさが喉を通って落ちていく。豚肉は重すぎず、野菜の甘みと一緒に食べると、練習後の空腹にちょうどよく収まった。レバーは少し癖があったが、量が多くないので食べにくくはない。
「どう?」
「美味い。あと、身体が落ち着く感じがする」
「落ち着く?」
「空腹で急かされる感じがない」
「それなら、今のところは狙い通りね」
椿はノートを開き、短く何かを書き込んだ。
蓮は黙って食べ進める。
昨日までの食事は、食べたら終わりだった。
今は違う。
練習で何を使ったか。
その後に何をしたか。
どれだけ食べ、どんな感覚が残ったか。
その全部が、次の食事の材料になる。
食事そのものが、練習の一部になっているようだった。
食後、蓮が食器を洗っている間、椿はリビングのテーブルでノートを広げていた。
部活の際に取っていた記録に加えて、追加で行った体幹の確認を付け加える。
そして、夕食の内容や蓮の感想が、ページの隅まで埋まっていく。
「サッカーを見てもいいか?」
食器を片付け終えた蓮が、リモコンを手に取って言った。
「ここ、あなたの部屋でしょう。好きにすればいいわ」
「うるさかったら言ってくれ」
「その時は帰るわよ」
「確かにな」
蓮はテレビの電源を入れた。
画面に映ったのは、欧州リーグの試合映像だった。
ただ、蓮はソファに深く座って眺めるわけではなかった。画面の正面に座り、戦術ノートを膝の上に置く。ペンを持ち、再生位置を少し戻してから、じっと画面を見る。
ボールを追っているようで、そうではない。
ボールの周りにいる選手。
少し離れた位置で身体の向きを変える選手。
ディフェンスラインの上げ下げ。
中盤の一人が首を振るタイミング。
画面の中の細かい動きを拾いながら、蓮は時折、ノートに線を引いた。
「……左が食いついた。ここで三人目が裏」
小さく呟き、映像を数秒戻す。
同じ場面をもう一度見る。
ペンが紙を走る音が、テレビの実況に混ざった。
椿はノートに書いていた手を止め、少しだけ顔を上げた。
蓮はテレビを見ている。
けれど、休んでいるようには見えなかった。
食事を終え、部屋着に着替え、リビングにいるのに、意識だけはまだピッチの中にある。画面の中の選手を見ながら、次に自分ならどこへ立つか、どこへ出すか、どこを使うかを考えている。
サッカーのことは分からない。
でも、蓮がただ眺めているわけではないことは分かる。
これは娯楽ではなく、確認なのだ。
椿はもう一度ノートに視線を落とした。
「……脳の疲労も、もう少し考えた方がいいのかしら」
小さく呟く。
身体だけではない。
走る、止まる、踏ん張る、回復する。
それだけを見ていればいいわけではない。
蓮は練習が終わっても、頭の中でまだサッカーを続けている。なら、その集中も消耗として扱わないといけない。
椿は明日の朝食欄に、いくつか食材名を書き足した。
隣では、蓮がまた映像を止めていた。
「……今の戻し方、遅い」
呟きながら、ノートに線を引く。
蓮が見ているものと、椿が見ているものは違う。
蓮はピッチの中を見る。
椿は、そのピッチに立つ身体を見る。
同じ画面を前にしていても、二人が拾っているものはまったく違っていた。
それでも、どちらも明日のための確認だった。
テレビの音と、ペンの音と、ページをめくる音が、夜の四〇一号室に静かに重なっていた。
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