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9食目 見つめる先

 放課後の喧騒を置き去りにして、マンションの401号室に滑り込む。蓮が重い玄関の鍵を開けると、背後にいた橘椿は、もはや自分の家であるかのような淀みのない動作でキッチンへ直行した。


「さあ、突っ立ってないで着替えてきなさい。あんたの仕事は、一分一秒でも早く心拍数を落として身体を休めることよ。こっちは十五分で形にするから」


 椿はスーパーで買い込んできた食材をカウンターに広げ、手際よくエプロンを締め直した。その背中からは「私の聖域に口出し無用」と言わんばかりの、職人気質なオーラが漂っている。

 蓮は無言で頷き、寝室へと向かった。泥と汗の染み込んだ練習着を脱ぎ捨て、ゆったりとした綿の部屋着に着替える。


 本来なら、ここでソファに沈み込み、スマートフォンの通知でもチェックするのが「休息」なのだろう。だが、今日の練習で感じた右サイドバックとの連携のズレ、そして切り返しの瞬間に感じた体幹の僅かな「遊び」が、蓮の意識を離さない。


 彼はリビングの空きスペースにヨガマットを広げると、音も立てずに自重トレーニングを開始した。

 プランクの姿勢で固まり、指先から踵までを一直線の鋼のように保つ。横隔膜を意識し、深く、細く、呼吸を制御する。筋肉の深層部に意識を潜り込ませ、神経を研ぎ澄ませる作業。


 その静寂を、キッチンから響くリズミカルな包丁の音が切り裂いた。


「ちょっと! トレーニング始めるなら、やる前に言いなさいよ!」


 椿が菜箸を武器のように構えたまま、カウンター越しに身を乗り出してきた。眼鏡の奥の瞳には、明らかな非難の色が混じっている。


「……何か問題があるか? 声は出してないはずだが」


 蓮は姿勢を崩さず、額に滲む汗を床に落としながら訊き返した。


「大ありよ! さっきの献立、あんたが食後にそのまま寝る前提で、グリコーゲンの充填速度を逆算して組んでたんだから。今から負荷をかけるなら、筋肉の修復に使うエネルギー効率が変わっちゃうじゃない。……全く、予定外の行動はやめてよね。計算が狂うわ」


 椿は毒づきながら、再び冷蔵庫を乱暴に開けた。

「……まあいいわ。冷蔵庫の余り物で無理やり整合性を取るから。卵二個と、さっきのパプリカの残りを足して……。アミノ酸スコアを維持しつつ、燃焼分を補填……。これでなんとかリカバリーできるはず」


 口では文句を並べ立てながらも、彼女の手は止まらない。不測の事態すらも瞬時に栄養学の数式に落とし込み、最適解を導き出していく。その圧倒的な「現場対応力」に、蓮は「すまん」と短く返し、再びトレーニングの深度を上げた。


 十五分後。食卓に並んだのは、急造とは思えないほど完成された一皿だった。

 椿が咄嗟に組み替えたメニューは、練習と追加トレーニングで削られた肉体を、底から優しく、かつ力強く持ち上げるような味がした。


 食後、蓮が黙々と食器を片付ける隣で、椿はリビングのテーブルに自前のノートを広げていた。今日一日の蓮の動き、気温、湿度の変化、練習中の水分摂取量。それらをすべて数値化し、明日の朝食のミリグラム単位のプランを練り上げている。


「……ちょっと、サッカー見る。うるさかったら言ってくれ」


 蓮がリモコンを手に、大型テレビの電源を入れた。


「その時は遠慮なく帰るわよ。ここはあんたの城なんだから、好きに使いなさいな」


「たしかに」


 短いやり取りの後、画面に映し出されたのは欧州トップリーグの録画映像だった。

 だが、蓮の観戦スタイルは、娯楽としてのそれとは一線を画していた。


 彼はソファに座ることすらしない。画面の正面、数メートルの位置に陣取ると、手元の戦術ノートを膝の上で広げた。

 画面の中でボールが動くたび、蓮の視線はボールの軌道ではなく、画面の隅で蠢く選手たちの「予備動作」や、ディフェンスラインの「数センチのズレ」を執拗に追いかける。


「……左サイドが食いついた。ここで三枚目が裏に抜ける」


 蓮は穴が開くほど画面を見つめ、時折、複雑な図解を交えながら戦術をノートに叩き込んでいく。

 テレビの青白い光に照らされた彼の横顔は、教室で見せる退屈そうな仮面とも、キッチンで見せる無愛想な表情とも違った。それは、フィールドという盤面を支配しようとする「天才」の、底知れない冷徹さと狂気的な熱量を孕んだ眼差しだった。


 ペンが紙を走るカリカリという音だけが、夜のリビングに鋭く響く。


 椿は、カロリー計算の手を止めて、ふと蓮の背中を見つめた。

 微動だにせず、画面の中の戦術を解剖し続けるその姿。


(……すごい。リビングにいるのに、この人、まだピッチに立ってる)


 適切な食事を与えられ、休息を命じられてもなお、彼はその頭脳を全回転させて、さらに高い場所へ行こうともがいている。

 その一切の妥協を許さない、自分自身への残酷なまでのストイックさに、椿は不覚にも胸が高鳴るのを感じた。


 自分が今、向き合っているのは、ただの「生意気な同級生」ではない。

 いつか世界という舞台を塗り替える、未完成の、けれどあまりにも巨大な「傑作」なのだ。


「……明日の朝食。鉄分とマグネシウム、もう一押し増やそうかしら。この集中力、脳の消耗が激しすぎるわ」


 椿は小さく独り言を呟き、再び自分のノートへと没入した。


 画面を凝視し、勝利の法則を解剖し続ける少年。

 その隣で、彼の細胞の明日をミリグラム単位で設計し続ける少女。


 二人の専門領域は、決して交わらない。

 けれど、その視線の先にある「頂点」という名のゴールは、今、確実に同じ方角を向いていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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