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10食目 変わる体

 放課後のグラウンド。西日が長く伸び、人工芝の緑をいっそう鮮やかに照らし出す中、常盤台高校サッカー部の練習は淡々と、しかし容赦のない強度で進んでいた。

 今日のメニューは、基礎的な対面パスと、三人一組でのコンビネーション・ワーク。一見すれば地味な反復練習だが、その実力の差は、ボールが止まる瞬間の音、そして次の動作への移行速度に如実に表れる。


 蓮はBチームの列に加わりながら、自分の身体の中に、かつてないほど「澄んだ」感覚を覚えていた。

 トラップした瞬間、足裏から伝わるボールの感触が、脳にダイレクトに、かつ鮮明に伝わってくる。一歩目の踏み込みに迷いがなく、筋肉の収縮はしなやかで、爆発的なエネルギーを内包していた。


(……軽い)


 それは、この二週間、隣の部屋の少女によって、一食、一粒単位で栄養を管理されてきた結果だった。彼女が提供する食事は、彼の細胞一つひとつを呼び覚まし、神経の伝達速度すらも書き換えてしまったかのようだった。


 対面パスの練習中。蓮が放つボールは、受ける側の部員が思わず「おっ」と声を漏らすほど、鋭く、それでいて正確に足元へ吸い付いた。

 相手からの返球。少し濡れた芝でスリップし、ややイレギュラーなバウンドとなる。


「あっ、悪い」


 相手が謝罪するが、蓮はそのバウンドを意に介さない。流れるように足の置き場を直し、天性の足首によって吸収する。その一連の動作の滑らかさは、明らかにBチームの、いやAチームのレベルすら逸脱していた。

 一週間前の、ただの「ドイツ帰りの天才」は、今や触れることすら躊躇われるような、研ぎ澄まされた刃物のような気配を纏っている。


 続いて行われた、三対三。

 エリアは二十メートル四方の極小スペース。パスの出しどころがなく、激しいボディコンタクトが繰り返される。

 蓮がボールを持つと、三年生のディフェンダー二人が瞬時に距離を詰め、挟み込みに来た。逃げ場はない。周囲の部員たちは、蓮がバックパスで逃げるか、強引なドリブルで自滅すると予想した。


 しかし、蓮の脳内には、誰にも見えていない「一本の道」が開けていた。

 蓮は、一歩も動かずにボールを晒し、相手の重心が自分に乗り切った瞬間、わずかに足首を捻った。

 ――バチン、と乾いた音が響く。


 放たれたボールは、ディフェンダー二人の「股の間」を同時に抜けるような、極めて低い弾道の縦パスだった。

 それは、味方のフォワードがまだ動き出したばかりに出された、到達点へのパス。


「……えっ?」


 パスを受けた二年生の部員は、驚きながらも反射的に足を出し、ボールをゴールへ流し込んだ。

 その場にいた全員が、一瞬、何が起きたのか理解できずに静止した。


「……なんだよ、今のパス」

「あいつ、今日キレすぎだろ」

「ああ。さっきから全然息が切れてない」


 部員たちの囁き声が、グラウンドの隅にまで伝播していく。


 監督はその様子を、手元のバインダーに目を落とすこともなく、ただ一人の少年――天根蓮の動きだけを凝視していた。

 彼が驚いているのは、蓮の技術ではない。その「持続性」と、動作の「迷いのなさ」だ。

 高校生という未完成の肉体は、練習が終盤に差し掛かれば、必ずどこかに綻びが出る。集中力が途切れ、膝がわずかに震え、パスの精度がミリ単位で狂い出す。

 だが、蓮にはそれがない。

 練習開始から二時間が経過してもなお、彼の出力は右肩上がりに上昇しているようにすら見えた。


「……そこまでだ。集合しろ」


 監督の低い声が、グラウンドに響き渡った。部員たちが肩で息をしながら、監督の前に集まる。蓮は列の端で、涼しい顔をして呼吸を整えていた。額に薄く汗はかいているものの、その瞳にはまだ十分な余力が漲っている。


 監督は部員たちの顔を一人ひとり見渡した後、静かに言った。


「今日の練習を見ていて、一人、上のレベルでやるべきだと判断した者がいる」


 グラウンドに緊張が走る。

 監督は、迷うことなく蓮を見た。


「天根。……お前、今日からAチームに上がれ」


 ざわり、と周囲が揺れた。入部してわずか一週間で、一年生が一軍へと昇格。それは、常盤台高校サッカー部の歴史においても極めて稀な出来事だった。


「……はい」


 蓮は短く、落ち着いた声で返事をした。驚きや喜びを露わにすることはない。その落ち着き払った態度が、かえって彼の「格」を際立たせていた。


「お前、この一週間で何をした? 身体のキレ、特に後半の集中力が、前回のチェック時とは比較にならない。……ドイツでの蓄積が、今になって爆発したのか?」


 監督の問いかけに、蓮は一瞬、言葉を詰まらせた。

 自分の才能が開花した。そう言えば簡単だ。だが、自分でも分かっている。これは、自分の力で勝ち取ったものではない。

 昨夜、キッチンでフライパンを振っていた、あの少女の顔が浮かぶ。


「……いえ。単に、身体の管理を見直しただけです」


「そうか。……いいだろう。その管理を徹底しろ。週末の公式戦、スタメンの候補として考える。……以上だ、解散!」


 部員たちが散り散りになる中、蓮もロッカーへと向かった。



 校門を抜け、夕暮れの街を走る。

 向かう先は、駅前のスーパー。


 誰にも知られてはいけない、秘密の同盟。

 蓮は、早まる鼓動を抑えながら、自分を待つパートナーの元へと急いだ。


「これでスタートラインだ」


 胸の中でそう呟きながら、彼はスーパーの自動ドアを潜った。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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