11食目 昇格、そしてご挨拶
放課後のグラウンド。そこには、越えがたい明確な「境界線」が存在していた。
このグラウンドで唯一の天然芝のメインピッチ。そこを独占するのは、常盤台の頂点たる22人。
蓮は、昨日まで立っていたサブグラウンドのフェンスを背にし、一歩、メインピッチへと足を踏み入れた。
足裏に伝わる芝の弾力が違う。だが、それ以上に違うのは、そこに屯する人間たちの密度だった。部員百人を超える大所帯の中で、わずか二十数名にしか許されない聖域。Bチームにいた頃は遠くから眺めるだけだったその場所は、近くで見ると驚くほど殺伐としていた。
「おい、一年。ここがお前の定位置だと思ってるなら、大きな間違いだぞ」
すれ違いざま、三年生のボランチが低く、濁った声を投げかけてきた。歓迎の言葉など微塵もない。一軍という椅子は有限だ。突然現れた「ドイツ帰りの一年生」にその椅子を奪われた上級生たちの視線は、品定めを通り越し、剥き出しの敵意に近いものだった。
蓮は、その重圧を真正面から受け止めていた。だが、不思議と足がすくむことはなかった。
むしろ、これまで感じたことのないほど、自分の身体が「静かに燃えている」のを自覚していた。
(……動ける。昨日よりも、さらに深く、細胞が呼吸している感覚がある)
今朝、椿が持ってきた朝食は、普段より少しだけ鉄分とビタミンB群の比率が高かった。
『一軍に合流すれば、フィジカルの強度が上がるわ。酸素を運ぶ赤血球と、エネルギー代謝をサポートする栄養素を多めにしておいたから。バテさせやしないわ』
彼女がキッチンで放った、あの確信に満ちた言葉が、今の蓮の血管を駆け巡っている。彼女は、今日この場所で蓮が受けるであろう肉体的な負荷を完璧にシミュレートしていた。
練習が始まった。
メニューは、一軍伝統の「ハイスピード・ポゼッション」。
狭いエリアで、止まることのないパス回しが続く。ボールの移動速度はBチームの倍以上。トラップがわずかに浮けば、即座に上級生たちが肉壁となって襲いかかってくる。
蓮にボールが入った。
その瞬間、先ほどの三年生が、挨拶代わりと言わんばかりに、身体ごと潰しにかかるような勢いで激しいショルダーチャージを仕掛けてきた。
「――っ!」
一瞬だった。向かってきた先輩をあざ笑うかのように、ワンタッチでいなす。重心を崩した上級生を視界の端に追いやり、蓮は最短のコースに鋭い縦パスを通した。
「おい、今の……」
どよめきが走る。一年生とは信じられないほど、圧倒的な技術。
蓮自身も、自分の身体の反応に驚いていた。意識が一点に集中し、次のプレーへの思考が途切れない。情報の処理速度が落ちない。これこそが、椿が最もこだわっていた脳のコンディショニングの成果だと、痛感していた。
そこに、ひときわ鋭い殺気を放つ男が近づいてきた。
エースストライカー、桐生海翔。このチームの絶対的な象徴だ。
「……天根蓮、だったか。噂は聞いてるぜ」
その瞳は、野性味を帯びた鋭いものに変わる。
「ドイツ帰りの実力、試させてくれよ。……俺にもパス、出してくんね?」
それは、エースからの宣戦布告だった。
桐生は、蓮の「パサーとしての資質」を試すように、ディフェンスラインの裏、あるいは足元、それもパサーにとって最も難易度の高いタイミングで動き出しを開始した。
蓮は、桐生の意図を瞬時に読み取った。
否、読み取ったというよりは、身体が勝手に反応していた。
桐生の加速に合わせて、蓮の左足から放たれたボールは、ディフェンダーの頭上を越え、バックスピンをかけながら桐生の走るコースの「五ミリ前」にピタリと落ちた。
「――っ、こりゃあすげえ!」
初めて合わせたとは思えないほど、完璧なタイミング。桐生がノートラップでシュートを放つ。鋭い打球音がグラウンドに響き、ゴールネットが激しく揺れた。
桐生は咆哮を上げ、蓮の元へ駆け寄ると、驚愕と興奮が入り混じった顔で蓮の肩を掴んだ。
「お前……マジで初めてかよ! 今のパス、俺が欲しいと思った瞬間に、まさにそこに置いてあったぞ。……おい、もう一本だ! 」
「……はい、桐生さん」
自分のパフォーマンスが上がることで、エースの潜在能力まで引き出していく。
メインピッチという戦場の中で、蓮は沈むどころか、その中心として巨大な渦を作り始めていた。
二時間の激しい練習が終了した。
多くの部員が腰に手を当て、荒い息を吐く中、蓮は一軍のメニューをこなしきってもなお、背筋を伸ばして立っていた。
周囲の視線は、もはや蔑みではなく、未知の強豪に対する「畏怖」へと変わっていた。
練習後。部室を出ようとする蓮を、桐生が呼び止めた。その顔には、先ほどの練習での興奮がまだ残っている。
「なあ、天根! この後、駅前にできたラーメン屋行かねえか!? 一軍合流の歓迎会だ。俺が奢ってやるよ」
エースからの、初めての誘い。周囲の上級生たちも「天根のやつ、桐生に捕まったな」と遠巻きに見ている。一軍というコミュニティに溶け込むための、これ以上ないチャンス。だが、蓮の胸には、何よりも優先すべき約束があった。
「……桐生さん。本当に、光栄なのですが。……どうしても、外せない用事があるんです」
「んだよ、初日から付き合い悪いな。用事ってなんだよ、門限か?」
桐生が少しだけ呆れたように笑う。
蓮は、申し訳なさを込めながらも、その視線は真っ直ぐだった。
「……いえ、まぁ日課みたいなもんです。パフォーマンス維持のため、食事はしっかり気をつけてて。
でも、また誘ってください。食事の周期、調整しときます」
蓮の言葉は、言い訳ではなく、アスリートとしての強固な決意に満ちていた。
桐生は一瞬面食らったような顔をしたが、やがてニカッと豪快に笑った。
「……はっ、いいねぇ。わかったよ、そのストイックさ、気に入ったぜ。その代わり、次は前もって誘うから来いよ?」
「はい。お疲れ様でした」
「うーい、お疲れさん」
蓮は、桐生の返事を背中で受けながら走り出した。
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