12食目 表舞台への階段
短めです
マンションの四〇一号室前に戻り、玄関の前で鍵を取り出したところで、隣の四〇二号室の扉が開いた。
「おかえり。今日は少し早いわね」
椿は保冷バッグと食材袋を抱えて出てきた。
「ああ。ただいま」
「今日は少し早いわね」
「部室で長く話さなかったからな」
蓮がスポーツバッグをソファの横に置くと、椿は顔を上げた。
その視線が、蓮の顔色、肩の落ち方、歩幅を順に拾っていく。
「……顔つきは悪くないわね。Aチーム初日、どうだった?」
「速かった」
蓮は椅子に座り、軽く息を吐いた。
「Bチームとは違う。寄せも、パススピードも、身体の当て方も。最初の数分で、見える範囲を変えないと間に合わないと思った」
「身体は?」
「最後まで動けた。足は張ってるけど、頭は切れてない」
「なら、朝と補食は大きく外してないわね」
椿は短く頷き、手元の皿を一つテーブルへ運んだ。
その反応は、喜ぶというより確認に近かった。
蓮がAチームでどうだったか。
それは、椿にとっては成果でもあり、次の修正材料でもある。
「桐生さんに合わせた」
「桐生さん?」
「Aチームのエース。二年生のフォワードだ。今日、俺にも出してみろって言われた」
「ああ、外から見ていて、一番前で動き出しが速かった人?」
「たぶん、その人だ」
「どうだった?」
「合った。最初は」
「最初は?」
「最後の方は少し長くなった。俺のボールも強かったし、桐生さんの足も落ちてた」
椿はその言葉を聞き、すぐにノートへ何かを書き込んだ。
「一軍の練習だと、終盤の判断だけじゃなくて、受け手の消耗も見ないといけないのね」
「そこまで見るのか? 橘さんが?」
「あなたのパスが誰に出るかで、走る距離も、負荷も変わるでしょう。全部は分からないけど、少なくともあなたの消耗には関係する」
椿はテーブルへ夕食を並べていった。
豚肉と根菜を使った温かい汁物。
柚子を少し利かせた白身魚。
小松菜と卵の和え物。
ご飯。
昨日よりも少し量が多い。
けれど、皿の上に重さはなかった。
「今日は、強度が上がった分を戻す。汗も多かったでしょうし、身体も当てられてるはずだから、温かいものを多めにしたわ。食べながら、足りるかどうか教えて」
「ああ」
蓮は箸を取る前に、ふと思い出した。
「そういえば」
「何?」
「練習後、桐生さんに誘われた」
「誘われた?」
「駅前にできたラーメン屋。一軍合流の歓迎会だって」
椿の手が、少しだけ止まった。
けれど、すぐに箸置きを並べ直す。
「一軍のエースから直々に?」
「ああ」
「それは、ありがたい話じゃない。チームに入るなら、そういう時間も大事でしょう」
「そう思った」
「行かなかったの?」
「断った」
椿は顔を上げた。
「え、断ったの?」
「急だったからな。今日の食事はもう組んでもらってたし、練習後に何を入れるかも決まってる。いきなりラーメンを入れたら崩れると思った」
「……真面目ね」
「悪かったか?」
「悪くはないわ。でも、全部断ればいいわけじゃない」
椿は蓮の向かいに座り、お茶を注いだ。
「外食は悪じゃないわよ。ラーメンだって、食べる日と量と前後の調整を考えれば、絶対駄目ってものじゃない。チームの人と食べる時間も、コンディションの一部になることはある」
「コンディションの一部?」
「そう。食事は栄養だけじゃないから。誰と食べるか、どういう気分で食べるかも、その後に響くことがある。もちろん、毎回好き放題食べていいって意味じゃないけど」
椿は少しだけ眉を寄せた。
「だから、また誘われたら前もって言って。朝と昼、練習後の補食、翌日の食事で調整する。急に言われると難しいけど、分かっていれば組み直せるわ」
「じゃあ、次は相談する」
「そうして。せっかくAチームに入ったんだから、食事のせいで距離を作るのも違うでしょう」
蓮はその言葉を少し考えた。
桐生の誘いを断ったことに、後悔はない。
けれど、椿の言うことも分かる。
食事を守ることが目的ではない。
プロになることが目的だ。
そのためにAチームでやるなら、ピッチの外の関係も無視はできない。
「分かった。次は、前もって言う」
「ええ」
「ただ、今日は帰ってきてよかったと思ってる」
「どうして?」
「この夕飯があるから」
蓮が言うと、椿は一瞬だけ視線を落とした。
「……食べてから言いなさい」
「もう匂いで分かる」
「匂いだけで判断しないで」
椿はそう言いながらも、少しだけ口元を緩めた。
蓮は手を合わせる。
「いただきます」
まず、汁物を口に運ぶ。
温度が身体の中へ落ちていく。柚子の香りが少し遅れて鼻へ抜け、練習後に残っていた熱が、ゆっくり整えられていくような感覚があった。
白身魚は軽い。
けれど、物足りなくはない。
小松菜と卵は、噛むほどに少しずつ味が出る。
「美味い」
「それはよかった」
「身体が戻る感じがする」
「戻すために作ってるから」
「なら、狙い通りだな」
蓮は頷き、箸を進めた。
しばらく食べた後、また口を開く。
「そういえば、今週末、公式戦がある」
椿の箸が止まった。
「公式戦?」
「ああ。月末の試合。スタメン候補として見るって言われた」
「……そう」
椿は少しだけ目を細めた。
「いよいよね」
「見に来るか?」
口にしてから、蓮は自分でも少し意外だった。
誰かに試合を見に来るかと聞いたことは、あまりない。
ピッチに立てば、見る人間が誰であれ、やることは変わらない。そう思ってきた。
けれど、今の身体を作る過程を見ている椿には、試合でどう動くかも見ておいてもらった方がいい。
練習とは違う負荷がある。
試合の緊張も、相手の強度も、プレー時間も違う。
それなら、椿が見るべき材料は増える。
椿は当然のように頷いた。
「行くわよ」
「いいのか?」
「当たり前でしょう。練習だけ見て、試合を見ないなんて中途半端じゃない。あなたの食事を組むなら、試合でどう消耗するかも見ないといけないもの」
「そう言うと思った」
「なら聞かなくてもよかったんじゃない?」
「予定があるかもしれないだろ」
「それはそうね」
椿はノートを引き寄せ、週末の欄に印をつけた。
「試合時間と集合時間、分かったら送って。前日と当日の食事を組み直す。試合後も、すぐ食べられるものを用意した方がいいわね」
「助かる」
椿は少しだけ返答に困ったような顔をして、それから追加の温菜を小皿に移した。
「とにかく、今日はしっかり食べて。明日の練習は、今日よりさらに強度が上がる可能性があるから」
「ああ」
「あと、桐生さんとのラーメンの件は、次に誘われたら必ず先に言うこと」
「分かった。食事の周期を調整する」
「言い方だけ聞くと、すごく変な高校生ね」
「間違ってはないだろ」
「間違ってはいないけど」
椿は呆れたように息を吐いた。
蓮は再び箸を動かす。
Aチームに入った。
桐生と合わせた。
公式戦の候補にも入った。
そのどれもが、まだ結果ではない。
けれど、明らかに次の段階へ進んでいる。
そのたびに、食事も、準備も、確認することも増えていく。
蓮は味噌汁を飲み干し、もう一度椿を見た。
「おかわり、あるか?」
「食べ過ぎも禁物よ」
「足りない感じがする」
「……なら、ご飯は少しだけ。タンパク質は追加しない。今日はもう十分」
「了解」
椿は立ち上がり、茶碗を受け取った。
キッチンでしゃもじが器に触れる音がする。
テレビもついていない。
外の車の音も、遠い。
四〇一号室には、食器の音と、椿がノートに書き足すペンの音だけが静かに重なっていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
「おもしろい」「続きが気になる」と思っていただけたら、ぜひ下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援をお願いします!




