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俺だけの献立 〜隣のスポーツ栄養士志望が俺の食事を管理するらしい〜  作者: はるくぼ
1年生・春 「はじまり」

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6食目 対等な取引

 天根蓮という少年は、徹底して真面目だった。


 それは、連絡先を交換した翌日から届き始めた食事報告を見れば、すぐに分かった。


『朝食。白ご飯。ゆで卵三個。小松菜と豆腐の味噌汁』

『昼食。サラダチキン三つ。水』

『夕食。鶏むね肉を茹でた。ブロッコリー。バナナ。プロテイン』


 写真は毎回、きちんと撮られていて、量もだいたい確認できる。

 送る時間も遅すぎない。


 そういう意味では、報告としてはかなり優秀だった。


 ただし、内容を除いて。


「……何なの、これ。この人、なんで戻ってるの......?」


 自分の部屋の机に向かいながら、椿はスマートフォンの画面を見つめていた。


 送られてくる写真は、どれも色が少ない。


 食材は悪くない。むしろ、一つひとつだけ見れば、運動部の高校生が選ぼうとする努力は見える。鶏むね肉も、卵も、ブロッコリーも、バナナも、プロテインも、目的を持って選んでいるのは分かる。


 分かるからこそ、余計に厄介だった。

 本人は真面目にやっている。

 真面目にやって、これなのだ。


『昼食。サラダチキン三つ。水』


 その一文を見た時、椿はしばらく画面を見たまま動けなかった。


 サラダチキン三つ。


 三つ。

 昼食として、サラダチキンを三つ。

 それを平然と写真に撮り、何の疑問もなく送ってくる。


 タンパク質を取ろうとしているのは分かる。

 脂質を抑えたいのも分かる。


 けれど、食事とはそういうものではない。


 少なくとも、サッカー部であれだけ動いた高校一年生が、昼にサラダチキンを三つ並べて水で流し込むような生活を続けていいはずがなかった。


「……これじゃ、食事じゃなくて補給作業じゃない」


 椿は椅子の背もたれに身体を預け、天井を見上げた。


 連絡先を交換した時、自分は確かに言った。


 作らない。

 基本はあなたが作る。

 私は見て、気づいたことを言うだけ。


 その線引きは必要だった。隣に住んでいるからといって、同じ高校だからといって、ましてや相手がドイツ帰りの有望選手だからといって、毎日ご飯を作るような関係になるつもりはなかった。


 けれど、送られてくる写真は日に日に椿の中の何かを削っていった。


 茹ですぎて硬そうな鶏むね肉。

 冷凍のまま解凍しただけに見えるブロッコリー。

 皿の上に直に置かれたバナナ。

 ゆで卵三個とトーストだけの朝食。

 サラダチキン三つの昼食。


 栄養素を数字で拾おうとしているのに、食事としての形がまるで見えていない。


 それは、管理栄養士を目指す椿にとって、見過ごすにはあまりにも気持ちが悪かった。


 今は午後八時を少し回った頃。

 まだ夕食の報告は届いていない。


 送られてきていないということは、これから作るのだろう。


 そう思った瞬間、椿の頭の中に、白い皿の上で乾いていく鶏むね肉の映像が浮かんだ。


「……もう、無理」


 椿は立ち上がった。

 机の横に掛けていた薄手の上着を取り、髪を雑にまとめる。鏡の前で一度だけ自分の格好を確認し、すぐにやめた。


 気にしている場合ではない。


 相手は隣。問題は夕食だ。


 椿はスマートフォンを机に伏せ、財布も持たずに玄関へ向かった。


 ◇


 四〇一号室のインターホンを押すと、少し間を置いて足音が近づいてきた。


 開いた扉から顔を出した蓮は、部屋着に近い黒のTシャツ姿だった。髪は少し湿っていて、おそらく練習後にシャワーを浴びたばかりなのだろう。目元には疲れが残っていたが、椿を見るとすぐに背筋を伸ばした。


「橘さん?」


「今日の夕飯」


「え?」


「まだ送ってないわよね。何を食べるつもりだったの?」


 蓮は少し考えてから、素直に答えた。


「これから作るところだった」


「見せて」


「……え、今?」


「今」


 椿が言い切ると、蓮は一度だけ瞬きをしてから、扉を大きく開けた。


 キッチンへ向かう。

 作業台の上には、すでに計量された食材が並んでいた。


 鶏むね肉。

 冷凍ブロッコリー。

 オートミール。

 プロテインのシェイカー。


 それぞれが、タッパーや皿の中にきちんと分けられている。量も雑ではない。むしろ、本人なりにかなり正確に測っているのが分かる。


 分かるからこそ、椿は余計に頭を抱えたくなった。


「……あなた、これを夕飯にするつもりだったの?」


「ああ。鶏むね肉二百グラム、ブロッコリー、オートミール。タンパク質と炭水化物は足りるはずだ」


「そもそも、なんでまた鶏肉とブロッコリーなのよ。何もわかってないじゃない」


「一応、昨日より炭水化物は増やしたぞ」


「そういう問題じゃないわよ......」


 椿は作業台の上に並んだ食材を見下ろし、深く息を吐いた。


「足りないとか以前に、食事として死んでる」


 蓮は眉を寄せた。


「死んでる?」


 椿は作業台の前に立ち、鶏むね肉を見下ろした。


「昼もサラダチキン三つだったでしょう」


「ああ」


「ああ、じゃないのよ。三つって何? どういう判断で三つになったの?」


「一つだと足りない。二つでも足りない気がした。三つならタンパク質量としては十分だった」


「〜〜っ!」


 椿は言葉にならない声を喉の奥で噛み殺した。


 悪気がない。

 それどころか、本人は本気で考えている。


 必要な栄養素を取ろうとしている。練習に耐える身体を作ろうとしている。プロになるために、できることをしようとしている。


 だから、余計に腹が立つ。


「いい? 数値だけ合わせればいいわけじゃないの。食べ続けられること、消化できること、身体が受け取れること、明日も同じように動けること。全部含めて食事なの」


「消化はできると思う」


「そういう意味じゃないのよ」


 そう言いながら、椿は袖を捲った。

 蓮が少しだけ目を開く。


「橘さん?」


「もういいわ。私が作る」


「いや、作らなくていい。評価だけで」


「評価する以前の問題なの。今ここで止めないと、あなたはまた鶏肉をただ茹でて、ブロッコリーを添えて、オートミールを流し込んで終わるでしょう」


「……その予定だった」


「ほら!もう見てらんないのよ!」


 椿はキッチンへ入り、冷蔵庫を開けた。

 以前より中身は増えている。


 最低限ではあるが、使えるものはある。


「調味料は?」


「そこの棚」


「醤油、みりん、砂糖、味噌……あるじゃない。どうして使わないの」


「塩分が増えすぎるかと思った」


「使いすぎなければいいの。味を全部抜くことが正解じゃないわ」


 椿は鶏むね肉をまな板に置き、包丁を取った。


 蓮はキッチンの入口で立ち止まり、何か言いたそうにしていたが、結局何も言わなかった。


 トントントン、と包丁の音が部屋に響く。


 鶏むね肉を細かく切り、玉ねぎを薄くスライスする。フライパンに少しだけ水を入れ、調味料を加え、火をつける。玉ねぎを先に入れると、すぐに甘い匂いが立ち始めた。


 蓮の視線が、その動きを追っているのが分かる。


「見てるなら覚えて」


「頑張る」


「鶏むね肉は火を入れすぎると硬くなる。硬いものを我慢して食べるのが偉いわけじゃない。食べやすくして、ちゃんと続けられる形にするの」


「......続ける」


「そう。続けられない食事は、どれだけ理屈が合っていても失敗」


 椿は溶いた卵を用意し、火の通りを見ながら鶏肉を入れた。


 強すぎない火加減。

 煮立たせすぎない音。

 玉ねぎの甘い匂いと醤油の香りが混ざり、少し前まで無機質だったキッチンの空気が変わっていく。


 蓮の部屋は片付いている。

 道具もきちんと戻されている。

 けれど、そこにはまだ生活の匂いが薄かった。


 今、フライパンから立ち上る湯気だけが、この部屋にようやく夕飯らしい気配を作っている。


「……匂いが違うな」


 蓮が呟いた。


「そりゃそうでしょう。茹でただけじゃないもの」


「同じ鶏肉なのに」


「同じ鶏肉だから、扱い方で変わるのよ」


 椿は卵を回し入れ、少しだけ火を弱めた。


 オートミールは、今日は無理に使わない。炊いてある米が残っていると言うので、そちらを使うことにした。冷凍ブロッコリーは解凍してそのまま添えるのではなく、軽く温めてから少しだけ味をつける。


 十分ほどで、作業台の上には親子煮に近い一皿と、温めた米、小さな副菜が並んだ。


 豪華ではない。

 特別でもない。


 けれど、少なくともそこには、食事としての形があった。


「ほら。食べて」


 椿が椅子を引くように目で促すと、蓮は素直に座った。


 箸を取り、一口食べる。

 鶏肉を噛んだ瞬間、蓮の動きが止まった。


 椿は腕を組み、その反応を見る。


「……美味い」


 短い言葉だったけれど、昨日の「助かる」とは少し違う響きがあった。


 蓮はもう一口食べ、米を口に運び、それから汁気の残った鶏肉をもう一度食べた。


「同じ食材で、ここまで違うのか」


「違うわよ。食べる人間に合わせて、調理も変えるんだから」


「チーム寮の食事より、今の俺には合ってる気がする」


 椿は一瞬だけ言葉を止めた。


「……それは言いすぎ」


「そうか?」


「そうよ。私はまだ勉強中だし、管理栄養士でもない」


「でも、今の俺には合ってる」


 蓮は真面目な顔でそう言った。


 お世辞ではない。


 椿にも、それは分かった。

 だからこそ、妙に返しづらかった。


「……食べ終わったら、片付けは自分でして」


「ああ」


 椿は手を拭き、キッチンの端へ寄った。


 蓮はしばらく黙って食べていた。食べる速度は速いが、昨日よりは落ち着いている。椿に言われたことを少しは覚えているらしい。


 皿の中身が半分ほど減ったところで、蓮が箸を止めた。


「橘さん」


「何?」


「頼みがある」


「片付けはしないわよ」


「そうじゃない」


 蓮は椿を見た。


 練習後の疲れは残っている。けれど、その目は眠たげではなかった。ピッチ上で見せるものと同じ、迷いのない視線だった。


「明日から、食事を作るところまで含めて、俺の栄養管理をしてほしい」


 椿は一瞬、言葉を失った。


「……はい?」


「もちろん、無理にとは言わない。食費は出す。報酬も払う」


「ち、ちょっと待って」


「俺は一人で生活を管理するつもりだった。でも、目的は自炊が上手くなることじゃない。プロになることだ。食事で遠回りするくらいなら、見えている人に頼んだ方がいい」


「待ちなさいって言ってるでしょう」


 椿は片手を上げた。

 頭の中に、蓮の言葉が遅れて入ってくる。


 食事を作る形で栄養管理。

 あまりに真っ直ぐすぎて、逃げ場がない。


「あなた、自分が何を言ってるか分かってる?」


「ああ」


「隣の部屋の、昨日ちゃんと話したばかりの同級生に、明日からご飯を作ってくれって言ってるのよ?」


「だから、報酬は払う。

 あ、安心してくれ。スポンサー料、もらってるから」


「お金の問題じゃないわよ。っていうか、スポンサーが既に付いてるのね......」


 椿はそこで言葉を切り、深く息を吸った。


 断る理由ならいくらでもある。

 けれど、放っておける理由が一つもなかった。


「……食費」


 椿は小さな声で言った。


「食費だけでいいわ」


「いや、報酬は払わせてほしい」


「いらない。私はまだ管理栄養士じゃないし、仕事として受けるわけじゃない」


「でも」


「いいの。ドイツ帰りで、プロを目指してる選手の食事を継続して見られるなんて、学校で習う座学以上の価値があるから。むしろこっちがお金払ってでもやりたいくらいよ」


 椿は蓮を見た。

 さっきまでの戸惑いは、まだ残っている。


 けれど、食事の話になると、椿の中で足場が戻ってくる。


 椿は小さく息を吐く。


「あなたは、私に最高の実習材料を提供する。私は、あなたが最高のコンディションで動けるように食事を組む。そういう取引なら、対等でしょう」


「対等......対等か......」


 蓮はその言葉を少しだけ噛みしめるように繰り返した。


「いいな、それ」


「勘違いしないで。私はまだ卵よ。完璧を保証するなんて言えない」


「それでも、俺よりは見えてる」


「……あなた、そればっかりね」


「事実だから」


 椿は少しだけ笑い、それからすぐに表情を引き締めた。


「じゃあ、明日から。朝はどうする?」


「作ってくれるのか?」


「当たり前でしょ。やるからには三食見るわよ。っていうより、一食でも目を離すととんでもない食事摂りそうだし。見てられなかったもの」


「手厳しいな」


「朝は7時でいい?」


「ああ。問題ない」


「了解。明日の朝の分の食材は、私の家から持って行くわ。今から買いに行くわけにも行かないから」


 椿はそう言い、玄関へ向かった。

 扉の前で、思い出したように振り返る。


「ねえ、部活って、部外者が外から見るのって大丈夫かしら?」


「外から? たぶん問題ないぞ。グラウンドのフェンス外にはよく他の生徒たちが見学してるから」


「そ。それならいいわ」


「橘さんも見たいのか?」


「違うわよ。練習の負荷とか、話聞くだけじゃ流石にわからないから、この目で見るだけよ」


「そういうことか。分かった」


「私はフェンスの外で見てるけど、無視していいから。それじゃあ、おやすみなさい」


 椿はそう言い残し、四〇二号室へ戻っていった。


 扉が閉まる。

 蓮は残った食事へ箸を戻した。


 自分一人で律するつもりだった生活は、二日目にして大きく形を変えた。


 けれど、それは敗北ではない。

 ピッチの上で、見えている味方を使わない理由はない。


 なら、ピッチの外でも同じだ。

 見えている人間がいるなら、その力を借りる。


 蓮は最後の一口を食べ終え、椿に言われた通り、皿を持ってキッチンへ向かった。


 こうして、四〇一号室と四〇二号室の間に、奇妙な取引が生まれた。


 天根蓮の身体を作るための食事。

 橘椿の理論を試すための実践。


 まだ互いのことをほとんど知らない二人は、その夜、同じ廊下を挟んだ隣同士の部屋で、それぞれまったく違う形で明日の食事のことを考えていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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