76食目 新年度の幕開け
キッチンには、いつも通りの音があった。
包丁がまな板に当たる軽い打音と、火にかけたフライパンの油が弾ける音。換気扇は一定の回転を保ち、湯気は上に流れていく。
椿は手元の動きだけを見ていた。
油の音が一瞬だけ強くなり、すぐに落ち着く。火を少し絞る。フライパンを返す。焼き色を確認し、位置を整える。
その一連の動きの最中、寝室のドアが開く音が聞こえた。
その音に、調理の手が半拍だけ遅れる。
すぐに動かし、何もなかったように続ける。焼き加減に影響は出ていない。何も問題はない。
「おはよう」
「……おはよう」
一拍遅れて返す。いつもどおりの挨拶のはず。
蓮はそのままキッチンへ入り、手を洗う。視線は一度だけテーブルへ向き、並びかけの皿を確認する。
「今日、少し軽めか?」
椿は皿を一枚置くと、もう一枚を手に取る。盛り付けの配置を整えながら、視線を落としたまま口を開く。
「……うん」
「そうか」
蓮はそれ以上は聞かない。椅子を引き、座る。皿が順に置かれていく。
椿は味噌汁をよそい、椀を置いた。
「いただきます」
「……ええ、どうぞ」
箸が動く。咀嚼の音は静かで、動きは一定だ。油は軽く、後に残らない。糖質も抑えられているが、満足感は切れていない。
蓮は数口食べ、特に違和感もなく食事を進める。
椿は向かいに座り、同じように箸を動かす。速度も量も普段と変わらない。
「……今日の、どうかしら?」
「どうした?急に。いつもどおり美味しいけどなんか変えたのか?」
「そう……それなら良かったわ。出汁、少し変えたから」
それだけ聞いた椿は、再び食事を再開する。
その様子に小首を傾げながらも、蓮は食事を続けた。
その後の会話は増えない。必要な言葉だけが交わされ、それ以上は続かない。
「ごちそうさま」
「……ええ」
食事を終えた蓮が立ち上がり、皿をまとめてシンクへ運ぶ。
椿はその背中を見たまま、何も言わない。
水の音が一定に続く。
やがて止まり、蓮は手を拭く。
「どうした?まだ行かないのか?」
「あ……。私も荷物整理してすぐ出るわ」
「わかった。じゃあ、先に出るな。鍵、よろしく」
「ええ。いってらっしゃい」
扉が閉まる。
音が消え、キッチンに静けさが戻る。
椿はしばらく動かずに立っていたが、やがて視線を落とし、足元のかばんに手を伸ばした。
放課後、グラウンドにはいつもと違う空気があった。
練習前に全部員が集められ、その列には新入生が並んでいる。
(あれからもう一年か)
今日から、新入生が加わる。
蓮は、新入生の列には目を向けず、一年前の自分を馳せた。
新入生は、そんな蓮が特に気になっていた。
「あれが天根さんか」
「すげー。なんつーか、オーラが違う」
浮ついた新入生を律するかのように、監督の声が響く。
「静粛に。今日からここにいる君たちが、常盤台サッカー部だ。
昨年も我々は、全国の舞台で頂を取ることができなかった。
今年こそ、この体制で取るぞ。以上」
それだけ言うとテクニカルコーチへとバトンを渡す。
テクニカルコーチから今日のメニューを聞いた各グレードが、それぞれのピッチへと移動する。
そこで初めて、蓮はある一年生に目を向けた。
特別な体格でも、特段目立つ何かがあるわけでもない。
ただ妙に、その一年生が気になった。
「どうした?天根。誰か知り合いでもいたか?」
「……いえ、知り合いとかではないんですが。
桐生さんは彼、知ってますか?」
「……どれだ?」
桐生との会話の間に、その一年生は人の波に消えていた。
「あー、見失いました」
「まぁ、上手いやつならすぐ上がってくるだろ。お前みたいに」
「……そうですね」
そういうと、蓮たちもトレーニングに移っていった。
夕方。部活を終えた蓮はいつもどおり自宅のドアを開ける。
聞こえてくる調理と換気扇の音。
手を洗い、部屋着に着替えてリビングへと入る。
「ただいま」
「おかえりなさい」
椿は、挨拶に続けて問いかける。
「そういえば、今日はなんか集まってたけどなにかあったの?」
「ああ、あれな。今日から新入生から入ったからな」
「そう。蓮くんも今日から先輩ね」
「ああ、桐生先輩たちみたいに振る舞えるか……」
「あら。あなたはあなたらしく接すればいいじゃない?誰かの真似をすればいいってもんじゃないと思うわよ」
そう言いながら、椿は食事をよそった皿をテーブルに並べていく。
「それに、やることは変わらないわ。私は食事を、あなたは?」
「……自分のスキルと椿の栄養管理をピッチで証明する」
椿は小さく口元を緩めてから、自分でもその表情に気づいたように視線を落とした。
「分かっているならいいわ。後輩にかまけて食事を疎かにしたら許さないから」
「ああ、わかってる」
そう言うと、2人は食事を始める。
食卓の温もりを示す湯気が、高く登っていた。
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