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75食目 花開く

 机の上には、開いたままの参考書とノートが並んでいた。照明の光がページを均一に照らし、余計な影を落とさない。ペンは手の中にあり、式は途中まで書かれている。


 椿は同じ行を、三度読み直していた。

 意味は分かる。導出の流れも追える。ここで詰まる理由はない。次に書くべき式も、頭の片隅ではもう出てきている。


 それでも、手が動かない。

 ペン先がノートの上で止まり、数秒だけ動かないまま時間が過ぎる。


 椿は一度、息を吐いた。ペンを持ち直し、式の続きを書く。途中まで書いたところで、線がわずかに歪む。そのまま書き切り、もう一度最初から見直す。


 間違いはない。

 ただ、どうしてもペンが進まない。


 視線を次の行へ移し、文字を追う。内容は理解できるが、頭の中で処理が完結しない。

 椿はペンを置いた。

 机の上に視線を落としたまま、数秒だけ動かない。


 さっきからずっと、別の思考が割り込んできている。


 昨日の光景が、そのまま残っている。


 テーブルの上に並んだ小袋。均等に揃えたはずの配分。そこから外れて、最初から混ざらなかった箱。手に取ったときの重さ。渡されたときの言葉。


 ――一番世話になってるから。


 再び、式の続きを書こうとする。

 ペン先が紙に触れ、最初の一文字だけが書かれるもそのまま止まる。

 書いた文字を見て、線を引いて消す。 もう一度書こうとして、同じ位置で止まる。


 集中できない。この思考を処理しないことには何も手に付かない。


 椿は一度ペンを置き、頭を支配する思考に身を委ねる。


 まず、事実。


 自分はチョコを用意した。

 理由は明確だ。栄養面の補正。市販品に偏ることで生じる脂質と糖質の過剰を、事前に調整するため。負担を軽減し、処理を安定させるための選択肢として、一つ用意しただけ。


 蓮からお返しを貰って嬉しかった。

 一番お世話になっている、その一言が自分の管理の恩恵を彼が感じてくれている証拠だったから。


 ここまでは、完全に合理だ。

 何もおかしな点はない。


 では、なぜ隠したのか。


 椿は、手元に視線を落とす。


 合理で考えるなら、渡すべきだった。量の管理も、摂取タイミングの制御も、その方がやりやすい。実際、口を出すことはできる立場にある。


 それでも、直接は渡せなかった。

 冷蔵庫に黙って入れた、その理由を探す。


 ――説明するのが面倒だったから?

 違う。あの程度の説明は負担にならない。


 ――他と同じ扱いにされたくなかったから?

 それも違う。管理対象として見れば、むしろ統一した方が効率はいい。


 思考が一度止まり、すぐに別の方向へ進む。


 なぜ、動揺したのか。

 チョコを置いたとバレたこと自体には何も問題はない。あのチョコなら、気づかれて困ることはない。


 なのに、言葉が出なかった。

 手が止まった。

 あの一瞬だけ、処理が遅れた。


 椿は一度だけ目を閉じる。すぐに開き、視線を机へ戻す。


 もう一つ。

 なぜ、嬉しかったのか。


 これは単純だ。

 自分の管理の恩恵を彼が感じてくれていることがわかったから。


 ーー本当にそれだけ?

 不意に浮かんだ指摘に近い疑問に、またも思考が止まる。


 彼は普段から、感謝も、気づきを伝えてくれている。

 あの時初めて伝えられたことではない。


 そこで、ひとつのあり得ない答えに行き着きかけ、椿は首を振った。


 この関係には必要のない感情。

 食事は機能であり、目的はパフォーマンスの最大化にある。そこにこんな感情を持ち込むわけにはいかない。


 それでも、あの言葉を聞いたとき、状態が変わった。

 蓄積された疲労が軽くなるとか、そういう直接的な変化ではない。だが、明確に何かが揺れた。


 椿は机に手をつき、思考を整理する。


 食事は契約。

 だが、完全に数値だけで決まるものではない。

 味、見た目、タイミング。そして――誰が作ったか。

 それは、摂取量や継続性に影響を与える要素として無視できない。


 ならば、今回の行動は、その範囲内なのか?

 椿は再び首を振る。


 違う。

 機能として扱うなら、隠す必要はない。渡せばいい。説明すればいい。他と合わせて管理すればいい。


 それをしなかった時点で、思考の前提がずれている。


 では、これは何か。

 思考が一度だけ、空白になる。


「……違う」


 再び浮上してきた答えに、否定が先に出る。

 これは、契約だ。彼と私の対等で合理的な関係。


 だがーー


 渡した理由。

 隠した理由。

 動揺した理由。

 嬉しかった理由。


 そのどれもが否定した一つの答えに向って離れない。


 視界の端に、まだ開けていない箱がある。

 昨日置いた位置から変わっていない。


 そこへ視線を向ける。

 数秒だけ見て、視線を外したが、すぐ戻る。


 それと同時に、脳裏には結び所に置いてきた言葉が浮かぶ。


 ーー待人 近くにありて気づかず


「そうか、私……」


 椿は大きくため息を吐いた。


「……好き、なのね」


 その夜、ノートは最後まで進まないままだった。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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