73食目 動蕾
翌朝。キッチンにはいつも通りの音があった。包丁がまな板に当たる軽い打音と、火にかけた鍋の静かな沸き上がり。出汁の香りに、焼いた鶏肉の脂がわずかに混じる。
蓮は顔を洗い、手を拭きながらそのままキッチンへ入った。テーブルには既に皿が並び始めている。量も構成も、普段と同じだ。
「おはよう」
「……おはよう」
椿は振り向かずに返す。声の高さも速度も変わらない。だが、フライパンを返す手の動きが一瞬だけ遅れた。
蓮は椅子を引き、座る。皿が一つ、二つと置かれていく。その配置も普段通りだが、味噌汁の椀だけがやや中心に寄った位置に置かれた。
椿はそれに気づき、何も言わずに数センチだけ戻す。
「いただきます」
「……ええ」
箸を取る。口に運ぶ。余計な負担が残らない味だった。糖質も脂質も抑えられているが、満足感は切れていない。今日の練習に向けた調整が、そのまま皿に出ている。
数口食べたところで、「そういえば」と、蓮が口を開いた。
「昨日、チョコ用意してくれたなら言ってくれればよかったのに。食べる時にお礼言いそびれただろ」
音が一つ、止まった。
椿の手が、箸を持ったまま空中で静止する。
「なっ、気づいたの?」
声がわずかに上がる。抑えようとしても、完全には戻らない。
「当たり前だろ。どれだけ椿の飯を食べてきたと思ってるんだ」
蓮は特に気にした様子もなく返す。皿から次の一口を取る手も止まらない。
椿は何か言い返そうとして、言葉を選び損ねる。
「……別に、大したものじゃないわ」
結局そう言って視線を落とした。箸を動かす速度が一瞬だけ乱れ、すぐに元へ戻る。
「そうか?美味しかったぞ」
「それは……レシピ通り作れば誰でも……」
返答はできている。だが、会話の流れには乗れていない。いつもなら栄養面での説明を入れるところで言葉が途切れる。
蓮はそれ以上追わなかった。
食事はそのまま続いた。会話は増えないが、完全に途切れるわけでもない。水を取る動き、皿を引く位置、箸を置く音。その一つ一つが、わずかにだけ噛み合っていなかった。
やがて皿が空になる。
「ごちそうさま」
「……ええ」
蓮は席を立ち、皿をまとめてシンクへ運ぶ。水を出し、いつも通りの手順で洗い始める。
椿はその背中を見たまま、一歩だけ動きかけて止まる。
「……あ、」
何かを言おうとして、言葉が続かない。
結局そのまま視線を落とし、椅子に戻った。
放課後。メインピッチの端では、アップの流れがそのまま練習へと移行していた。ボールの音とスパイクの擦れる音が重なり、昨日までと同じ強度が保たれている。
蓮は軽くボールを受け、返す。その繰り返しの中で、身体の反応を確認する。ズレはない。昨日と同じ水準で動けている。
「おーい、天根」
横から声が飛ぶ。桐生が軽く手を上げながら近づいてきた。
「昨日すげぇ量だったな。結局何個もらったんだよ」
「数えてないです。量だけ見れば十分だったので」
「はは、お前らしいな」
桐生は笑いながらボールを足元で転がす。
「で?お返しどうすんだよ。ああいうの、全員分用意すんの面倒だろ。覚えてんのか?」
「どうしようかなって。全員に返すべきなんでしょうけど、覚えきれない…」
「マジかよ。災難だなぁ」
軽口だが、否定はしない。
桐生は一歩踏み込み、少しだけ声を落とした。
「……で?そんなことより、橘からも貰えたのか?」
蓮は特に間を置かずに答える。
「ええ、まあ。でもあいつ、なんも言ってくれなかったんですよ。食べる時にお礼言えなかったんです」
今朝の椿との会話を伝える。
その話を聞いた桐生の動きが、一瞬だけ止まる。
「……はははっ、なるほどなぁ」
短く笑う。だが、その笑いはさっきまでの軽さとは少しだけ違っていた。
「どうしました?」
蓮が問い返す。
「別になんでもねーよ。にしてもあいつほんっと散々だな」
桐生はそれだけ言って、ボールを軽く蹴り出した。話はそこで終わりという空気を作る。
蓮は一瞬だけ視線を向けたが、それ以上は追わない。意味があるなら言うはずだし、言わないなら必要ない情報なのだろう。
笛が鳴り、練習が再開する。ボールが回り、寄せが速くなる。蓮はその流れの中に戻り、足元へ入るボールを受けた。
今日もプレーは止まらない。
判断も、冷蔵庫の中身も変わらない一日だった。
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