72食目 紅蕾
放課後の廊下は、授業の熱がまだ壁に残ったまま、部活へ向かう生徒と帰る生徒の流れだけが先に動き出していた。
蓮は教室を出ると、人波に速度を合わせてロッカーの並ぶ壁際へ向かう。その途中で何度か名前を呼ばれたが、どれも軽く手を上げるだけで流した。今日に限っては、視線の集まり方がいつもと少し違う。机の中にそっと入れられた小袋、靴箱の上に置かれた小さな箱、部室の前まで運ばれてくる紙袋。バレンタインという行事が、蓮にとっては感情より先に物量として迫ってきていた。
部室の扉を開けるころには、両手の紙袋にいくつもの箱が入っていた。包装の色も形もばらばらで、差出人の名前が丁寧に書かれているものもあれば、何もないものもある。蓮は一度だけ中を見渡し、そっと袋を持ち直した。
少なくとも、この場で一つずつ処理する意味もない。だが、持ち帰って、量を見て、どれから食べるかを決める必要はある。
そこへ、背後から声がかかる。
「天根くん。少し、いい?」
「ああ」
振り向くと、同学年の女子が一人立っていた。クラスメイトで、顔は知っている。ただ、それ以上の交流はない。蓮は部室の前から離れ、相手が話しやすいように人の流れから少しだけ外れた。
女子は一度息を整え、それから真っ直ぐ蓮を見た。視線を逸らさないあたり、覚悟は決めてきているらしい。
女子が口を開いた瞬間、部室の中から誰かを呼ぶ大声が重なった。
「――好きです。よかったら、付き合ってください」
最初の部分が聞き取れなかった。
何か好きなものがあり、それに付き合ってほしいということらしい。
「悪い。最初が聞こえなかった」
「え?」
「何が好きなんだ? それと、どこに付き合えばいい?」
「……どこ?」
「場所が分からないと、予定を確認できない」
女子は何度か瞬きをした。
「そうじゃなくて……天根くんが、好きなの」
「俺?」
「そう。恋人として付き合ってほしいの」
「コイビトとして、どこに行けばいいんだ?」
「……行き先の話じゃないの」
「でも、付き合ってほしいんだろ?」
「ねぇ、意味わかってる?」
「ああ。コイビトとしてどこかに一緒に行けばいいんだろ?」
「全然わかってない!?」
女子の声が思わず廊下に響き、近くを通った生徒が何事かと振り返った。
女子は赤くなった顔を伏せ、額に手を当てる。しばらくそのまま黙り込み、今度は言葉を一つずつ選び直すように顔を上げた。
「どこかへ行ってほしいんじゃなくて、私の彼氏になってほしいの!」
「カレシ?」
「えぇ……あっ、そう! ボーイフレンド!」
「ああ、そういうことならいいぞ」
「えっ……!」
「というか、クラスメイトなんだから、もう友達みたいなものだろ」
「だと思った! 友達じゃなくて、一緒に帰ったり、休みの日に会ったり……私を特別な相手として見てほしいの!」
「でも、放課後も休日も部活があるから無理だぞ?」
「私は、あなたの邪魔はしない!」
「何の邪魔だ?」
「……え? 今、サッカーの話してたよね?」
「別に友達はサッカーの邪魔にはならないぞ?」
「くそっ!!!」
女子は両手で顔を覆い、そのまま数秒動かなかった。
「……はぁ。もういいや」
「いいのか?」
「ごめん。今の話、なかったことにして」
「分かった」
女子生徒はそのまま踵を返し、人の流れへ戻っていく。蓮も特に追わず、部室の方へと向きを変えた。
部活の時間は、普段と同じように流れた。復帰から日を置いていない今、まだ視線を集めるのはプレーの質そのものだが、それでも今日は練習前後に余計な動きが増える。
桐生に「すげぇ量だな」と半笑いで言われても、同意の言葉を返すだけで、それ以上広がらない。
蓮にとって重要なのは、誰から、そしてどれだけもらったかではなく、貰ったものをどう処理するかだった。
帰宅して玄関の扉を閉めると、ようやく外のざわつきが切れた。床にバッグと紙袋を置き、靴を脱いで手を洗う。部屋の中からは食事の香りと、調理の音が聞こえる。
蓮は床に置いた袋を見下ろし、軽く眉を寄せた。
「……多いな」
呟きながらも手を洗い終えた蓮は、再び両手に紙袋を抱えてリビングへと入る。
「おかえり、随分大変そうね」
椿がいつも通りの調子で話しかけてくる。ただし、今日の視線は蓮ではなく、その両手へと向けられていた。
「ああ……想像以上だった……」
そう呟きながら、箱の大きさを見て冷蔵保存が必要そうなものだけ先に分け、冷蔵庫を開けて奥から順に詰めていく。市販品らしい硬い箱、柔らかい包み、リボンがかかったもの。冷気の中に甘い匂いが混ざり、いつもの整った保存空間に異物が増えていく。
「全部入れるの?」
椿が横から手元を覗き込んでくる。
「傷みそうなやつだけ。残りは外でいいだろ」
「ならいいわ。一度に食べる量を決めるのに、こっちでも見てもいい?」
「ああ、頼む……」
蓮が短く返すと、椿は小さく息を吐いた。
夕食の時間には、甘い匂いはほとんど部屋から消えていた。代わりに湯気と出汁の匂いが満ちる。蓮はテーブルにつき、椿が置いていく皿を見た。脂質を抑え、消化に負担をかけず、それでいて満足感を切らさない構成。今日という日を前提に、最初から組まれていたのだと分かる。
「やっぱり食事は軽めか」
「軽いというより調整よ。どうせ何かしら食べることになるんだから、最初から崩れないようにしてるだけ」
椿はそう言って味噌汁を置く。
「市販品が多いなら脂質は想定より高いし、糖質も単純なものに寄るでしょうしね。だったらこっちで余計な負担を減らすしかないわ」
「なるほど」
「あと、一度に処理するなって言ったのは忘れないで。箱ごとに開けて片っ端から食べるのは論外だから」
「さすがにそこまでしない」
「本当かしら? あなた、優しいから」
そんなやり取りのまま食事が始まる。蓮は運動後の空腹を自覚していたが、椿の皿を食べ始めると、身体が先に落ち着いていくのが分かる。余計な重さが残らない。食後に眠くもならない。こういう時ほど、日常の基準がはっきりする。
「……で、どれくらいもらったの?」
椿が何気ない口調で聞く。
「数えてない」
「数えなさいよ」
「量だけ見れば十分だろ」
「よくないわよ。お返し大変よ?」
「そこまで考えてなかった……」
会話はそこまでで切れた。普段通りの夕食、普段通りの調整、普段通りの管理。今日が特別なのは、冷蔵庫の一角に置かれた箱の数だけだ。
「じ、じゃあ……原材料の分からないものは勝手に開けないでよ。確認できた箱は冷蔵庫の手前に寄せておいたから、今日食べるなら、その中から二つまでならいいわよ」
食後、椿は片付けを終えると、それだけ言い残して早々に部屋へ戻った。
蓮は軽くストレッチをし、水を飲み、机の上のプリントに目を通す。時間はそれほど経っていない。部屋の静けさが戻り、隣からもほとんど物音はしない。
しばらくして、蓮は冷蔵庫を開けた。椿が確認したという手前の箱を見下ろし、どれから手をつけるかを考える。
その時だった。
「……?」
見覚えのない箱がある。
形は簡素で、余計な装飾がない。サイズも大きすぎず、小さすぎない。自分で入れたものなら位置くらいは覚えているはずだが、この箱を置いた覚えがない。
蓮は、一度冷蔵庫の扉を閉めかけ、やはり気になってもう一度開けた。
箱を手に取る。軽い。市販品の均一な重さとも違う。どこか、置かれ方まで含めて馴染んでいるのが妙だった。
「誰のだ……?」
差出人の名前はない。だが、そこで考えは長く続かなかった。理由は分からないのに、手が自然と箱を開けている。
中には、形の揃った小ぶりのチョコが並んでいた。派手さはない。だが、無駄もない。市販品より少しだけ不揃いで、その分だけ人の手が入った痕跡がある。
蓮は一つ手に取り、口に入れた。
甘さは抑えめで、油分の残り方が軽い。食べた瞬間に分かる。余計な負荷をかけない構成で、食後に残る重さがない。味の作り方も、今日の夕食と同じ方向を向いている。
そこでようやく、蓮は箱を見下ろした。
「……あいつ、言ってくれればよかったのに」
結論に至るのは早かった。差出人の名はなくても、量、構成、食後感で分かる。これを差出人不明で片付ける方が無理だった。
蓮はもう一つ手に取る。なぜか他の箱には触れる気がしない。今日持ち帰ったものはどれも同じように冷蔵庫へ入れたはずなのに、この箱だけは最初から選択肢として前に出ていた。
「栄養面を考えて作ってあるからか」
それなら自然と手が伸びるのも説明がつく。身体に負荷をかけず、処理しやすいものを選ぶのは、今の自分にとって当然の判断だ。
蓮は箱を閉じると、ほかの箱を奥へ押し込み、それだけを冷蔵庫の手前へ戻した。順番に処理すればいいはずなのに、基準は既に決まっている。
部屋の中は静かだった。隣室の気配も薄い。椿はもう戻ったきり出てこないのだろう。
蓮はもう一度だけ箱を見て、それから冷蔵庫を閉めた。甘さはまだ口の中に残っているが、重さは残らない。今日一日受け取ったものの中で、最初に身体が選んだのがそれだったという事実に、特別な意味は感じない。手に取った理由が分かった以上、それ以上の思考は巡らない。
机へ戻り、水を一口飲む。
冷蔵庫の中にはまだ箱がいくつも並んでいる。だが、次も手を伸ばす先だけは、もう決まっていた。
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