71食目 食事幸福性
昼休みの教室は、いつもよりわずかに騒がしかった。机の上に小さな箱や袋が並べられ、まだ日付には早いはずの甘い匂いが空気に混じっている。誰が誰に渡すのか、どこまでが本命でどこからが義理なのか、断片的な言葉だけが周囲を流れ、具体的な形にはならないまま雰囲気だけが先行していた。
椿はその流れを一度だけ視界に入れてから、手元のノートに視線を戻す。
開かれているページには食事の配分が書かれていた。数値とメモが短く並ぶだけの簡素な構成だが、そこに無駄はない。冬休みの間に蓄積された身体の反応を基準に、日常へ戻したあとの負荷と回復のバランスを再調整している途中だった。
その中で、一つだけ外部要因として無視できない項目がある。
「……陽菜」
椿が声をかけると、隣の席でスマートフォンを眺めていた陽菜が顔を上げた。
「ん?」
「彼、バレンタインの日はどれくらいもらうかしら?」
名前を出さなくても伝わる。陽菜は一瞬だけ考え、すぐに肩をすくめた。
「天根くん?まあ、相当じゃない?サッカー部の主力だし、あれだけ試合出て結果出してるし、プロにも内定してるし。もらう理由上げたらきりがないんじゃない?」
「……そうよね」
椿は短く返し、そのまま視線をノートに落としたまま言葉を続ける。
「全部食べるかは本人次第だけど、一度に処理させるのは無理ね。量が読めない以上、上限だけは決めておかないと崩れるわ」
「崩れるって?」
「消化の負担と、翌日のパフォーマンス。糖質と脂質が一気に入れば一時的に上がるけど、その後の落ち方が読めなくなる」
言葉は簡潔だが、切り分けは明確だった。椿の中では既に前提が固まっている。
「だから、当日は制限をかけるしかないわね。食べる量は見て決めるけど、上限はこっちで管理するとか」
「へぇ、そこまで見るんだ」
「当たり前でしょ。崩したら戻すのに時間がかかるもの。
……こっちとしてはもらう量も制限できれば楽なんだけど」
椿はペン先でノートの端を軽く叩きながら溢す。
「それに、問題は量だけじゃないわ。中身も影響あるもの。
極端に偏ってるものは避けさせるし、量が多すぎるものは分散させる。箱の大きさと中身の傾向くらいは確認しないと調整が組めないわね」
「全部把握できるの?」
「無理よ。……はぁ、とんだ面倒事だわ」
即答だった。周囲と違い、この空間には甘い空気は欠片もなかった。
ノートの空白に視線を落としたまま、ほんのわずかに間が空く。
陽菜はその沈黙をそのまま受け取るように、何も言わずに待った。
「……まあ、だいたいは予測できるけど」
椿はそのまま続ける。言葉は崩れていない。
「市販が多ければ成分は読めるし、手作りが混ざるならそこだけ注意すればいい。全部を正確に把握する必要はないわ」
「流石だねー」
陽菜は軽く頷く。その視線は椿から外れない。
「それで、椿はどんなチョコあげるの?」
ペンを持つ指が、ほんの一瞬だけ止まった。
すぐに動きは再開されるが、ノートの上には何も書かれない。
「……なんであげる前提なのよ」
視線を上げずに返す。
「あれー?違った?」
「別にそんな話はしてないじゃない」
椿は淡々と言い切る。
「必要ないもの。彼、どうせたくさんもらうんだし。わざわざ増やす意味はないでしょ」
「ふーん」
陽菜は椿の合理的な結論を否定しなかった。そのまま少しだけ視線をずらし、別の話題を持ち出すように言葉を重ねる。
「そういえばさ、椿前言ってたじゃん。なんだっけ、効果的な栄養吸収に必要なやつ」
椿の眉がわずかに動く。
「……食事幸福性のこと?」
「それそれー」
陽菜は軽く頷く。
「味とか見た目とか、そういうのも含めて吸収効率が変わる可能性があるってやつだよね」
「厳密には、吸収そのものに直接作用するわけじゃないけど」
椿は一度言葉を区切る。
「食事量や消化の状態、継続性には影響する。結果として、取り込まれる栄養量は変わる」
「ふむふむ」
陽菜は視線を外さないまま、続ける。
「でも確かさ」
「……何」
「誰が作ったかも、含まれるんじゃなかった?」
椿の思考が、そこで一瞬だけ止まる。
視線は落ちたまま、言葉だけが返る。
「……定義上は含まれるわ」
短い肯定だった。
「条件としては、無視できない要素ね」
それ以上は続かなかった。
訪れた空白にも、陽菜は何も言わない。続きを促すことも、結論を出すこともせず、ただ椿の反応を待つ。
「……影響はある」
椿がぽつりと呟く。
「ゼロじゃない」
言葉は整理されている。だが、その言葉は結論にはならない。
「でも、それは……」
続きが出ない。
必要か不要かで切り分けるなら、既に答えは出ている。渡さない。増やさない。管理対象を無駄に増やす理由はない。
それでも。
椿の中で、別の計算が同時に走っている。
誰が作ったか。
どの程度の影響が出るか。
それが、他と同列に扱えるものなのか。
そこまで考えたところで、椿は小さく息を吐いた。
「……意味がない」
誰に向けるでもなく、そう言う。
だが、その言葉は切断にはならなかった。
教室のざわめきはそのまま続いている。包装の色や味の種類、渡すタイミング、そういった断片的な情報が耳に入るたびに、椿の中の計算は止まらない。
――渡さない。
その判断は変わっていない。
だが、その前提のまま、もし、という仮定が消えない。
どの程度の量なら許容できるのか。
負担を増やさずに組み込める形はあるのか。
その場合、他とのバランスはどう崩れるのか。
思考は整理されているはずなのに、最後の一点だけが決まらない。
椿はノートを閉じ、ペンを置いた。
視線は変わらず机の上に落ちている。
結論は既に出したはずだ。
だが、それで処理が終わらない。
その事実だけが、静かに残っていた。
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