70食目 万全の意味
冬休みが明けた、最初の放課後。トレーニングウェアをまとった蓮が、メインピッチに立っていた。
選手権予選後のあの怪我から、実に2ヶ月ぶりの復帰。もうすっかり慣れ親しんだ感触を確かめるように、強く芝を踏みつける。
「――お、天根」
横から軽い声が飛ぶ。振り向くと、ラフに肩を回しながら桐生がこちらを見ていた。
「お久しぶりです、桐生さん」
「おう。戻ってきたか。……で、どうだよ身体は」
口調は軽いが、視線は太ももの位置へ向けられていた。蓮はその視線に短く答える。
「問題ないですよ」
「そっか。ま、最初は再発しないように気をつけてな」
「……いえ、もう万全ですから」
間を置かずに返すと、桐生の口角がわずかに上がる。
「言うじゃねえか。じゃあ見せてもらうぜ」
それだけ言って、桐生は視線を切った。
アップが流れ、ボールが足元に入る。止める、運ぶ、繋ぐ。その一つ一つで無理に変えようとしないまま、重心だけが中央に収まり続ける。以前なら外へ逃がしていた接触の力が、そのまま内側で処理されて抜けていく感覚がある。
「天根」
メインピッチの一角でじっと見ていた、監督が蓮を呼んだ。
「この冬休みで、大きく変わったようだな」
確認ではなく事実の提示だった。蓮は短く頭を下げる。
「わがままを聞いていただき、ありがとうございました」
「今回は自主性を尊重しただけだ。当たり前だと思わぬように」
それだけで終わる。蓮は練習に戻っていった。
軽めのパス練習が終わり、ポゼッションが始まる。人数を絞ったグリッドの中で、ボールが高速で回る。寄せが速い。判断を遅らせれば即座に奪われる強度で、足元に入った瞬間に次の選択が要求される。
外からのパスが入り、蓮は一歩もずらさずに受ける。寄せは早い。だが、肩が当てられても、軸がぶれないまま接触を内側で処理し、ボールは足元に収まった状態で止まる。視線を切らずにワンタッチで他へ逃がす。
「今の……」
近くで見ていたチームメイトが小さく呟くが、次の瞬間にはまたボールが回る。止めて考える余地はない。
もう一度入る。今度は逆側から強く寄せられる。以前なら一度外へ逃がしていた角度だが、足幅を変えずに体幹で受け止め、そのまま軸を保ったまま内側へ引き込む。寄せた相手の力が空を切る。空いたラインへ即座に差し込む。
「……収まり方、おかしくない?」
「前からレベル違ったけど、あんなにだったか?」
外で見ている声が混じる。だがプレーは止まらない。三本、四本と循環する中で、同じような接触が何度も起きる。その度にボールが足元に残り、次へ流れる。
桐生が円の外から一度だけ視線を寄越す。桐生の顔にすら驚愕が浮かんでいた。
笛が鳴り、メニューが切り替わる。今度は試合形式。ピッチを広く使い、実戦に近い強度で回す。
ボールは中盤で動き、蓮は中央で受ける位置を取り続ける。パスが入る前から、背後からプレッシャーが来る。トラップと同時に身体を半歩だけずらし、視界を確保する。
圧を強められようと、蓮の軸がブレることはなかった。
その中で、一本のパスがずれる。足元ではなく、数歩分横に外れた位置へ入り、芝の上でわずかに滑る。通常ならつながらないパスミス。
だが、蓮は最小のステップで重心だけを修正して足を伸ばすと、軸を崩さずにそのまま収める。下半身全体で吸収し、イレギュラーですら収めてしまう。
「……っ」
寄せていた選手の動きが一瞬遅れる。その隙を逃さない。
受けた瞬間に視線が前を捉え、次の一手を迷わず選ぶ。外へ開いていた味方の動きに合わせ、間を通すパスをそのまま流す。ボールは減速せずにラインを抜け、裏へ出る。
抜け出した選手がそのままシュートを決める。プレーは止まらないが、周囲の空気だけが一瞬だけ遅れる。
「あれ収めるかぁ」
「しかもそのまま出すのかよ……」
声が小さく重なる。静かな驚きが、ピッチ全体に広がっていく。
その後も同じだった。寄せられても流れない、ボールを逃さない、判断が止まらない。派手なプレーはないが、同じ質が連続することで、周囲の認識が少しずつ書き換わっていく。
桐生が途中で笑った。
「おいおい、なんだそれ。前から上手かったけどよ、そんな安定してたか?」
軽い口調だが、決して軽い視線ではない。蓮は短く返す。
「やることは変わってないです。できることが広がっただけです」
「それでここまでの差が出るのが怖えんだよ。一体何したんだよ」
肩をすくめて笑う。だがその後ろで、次のプレーを待つ姿勢は崩れていない。
時間が進み、練習が締めに入る。強度が落ちても、質は変わらない。最後の一本まで同じ精度で繋がる。
笛が鳴る。
「そこまで」
監督の声で全体が止まる。軽く息を整えながら、各自が散っていく。
蓮はその場で一度だけ足元を見た。芝の感触は同じ。身体の反応だけが、以前より遅れない。
「――お疲れ」
横から桐生が声をかける。
「お疲れ様です」
「万全、って言うだけはあるな。この冬休みいなかったけどよ、どこでなにしてたんだ?」
「フィジカルトレーニングです。リハビリも兼ねてトレーナーについてもらってました」
「なるほどな。だがよ、冬休み期間だけでこんな変わるもんなのか?」
「さぁ……」
短く返す。
桐生はそれを見て、何を感じ取ったのか、話題を変えてきた。
「お前、なんか隠してない?」
「え?」
「なんつーか。ただのトレーナーだったのか?」
質問の意図を反芻するように、蓮は少し考え込む。
「……ただの、ではないですね。プロも見てるトレーナーでした」
「そういうことかよ。何事もプロってのはすげぇんだなぁ」
その回答で納得したように、桐生はロッカールームへと引き上げていった。
蓮も靴紐を緩め、クールダウンを続ける。
短期間の肉体改造が、着実に成果を発揮していた。
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