69食目 露呈した距離
橘家の玄関で、蓮は靴を履き終えると、一度だけ橘夫妻へ向き直った。
「大変お世話になりました」
賢崇が穏やかに頷き、梓が明るく笑う。
「こちらこそよ。遠慮しないで、また来てちょうだい」
「トレーニングの続きもあるしね。次に来る頃には、また別の段階へ進めるだろう」
「はい。よろしくお願いします」
蓮が頭を下げると、隣で椿が小さく息をついた。
「ほら、行くわよ。電車の時間あるんだから」
「ああ」
二人はそのまま外へ出て、駅へと向った。
蓮と椿は昼過ぎの電車に乗り、窓の外を流れる冬の町並みを横目に、行きより静かな空気のまま帰路を辿っていた。
行きはトレーニングへの期待と橘家という未知の生活圏へ踏み込む緊張があり、帰りは数日間の積み重ねで得た手応えと、元の生活へ戻る現実があるだけで、同じ路線でも見える景色の輪郭が少し違う。
蓮は膝の上に置いたスポーツバッグに片手を預けて外を眺めている。その隣では、椿がスマートフォンに簡潔なメモを打ち込み、休息日を挟んでから再開するメニューの順序と、自宅に戻ってからの食事配分を整理していた。
「賢崇さん、やっぱりすごかったな」
蓮が不意に言うと、椿は画面から視線を上げずに「そうね」と返し、それから数秒遅れてスマートフォンを伏せた。
「でも、あんたの吸収速度の方が想定より速かったみたい。お父さん、最後の方はかなり乗ってたし」
「それは感じた。最初は様子見って感じだったのに、途中から完全に“次はこれ、その次はこれ”で組んでた」
「珍しいのよ。基本は慎重だし、最初から手札を切りすぎない人だから」
「じゃあ、合格はしたってことか」
「……一応ね」
椿はそこで言葉を切ったが、その横顔はわずかに誇らしげで、父の評価に対する安心と、自分が繋いだ先で蓮が正面から応えたことへの安堵が同時に滲んでいた。
電車が減速し、アナウンスが降りる。二人は自然に立ち上がり、荷物を手にしてホームへ降りた。改札へ向かう人の流れは年始らしい緩さを残し、急ぐでもなく滞るでもなく進んでいく。
蓮は人波に合わせて速度を落とし、後ろを歩く椿のキャリーケースが段差に引っかからないように位置だけ気にしながら改札を抜けた。
そこで、声が飛んだ。
「え、うそ」
高くもなく低くもない、けれど妙に耳へ刺さる声だった。二人が同時に顔を向けると、改札のすぐ外、券売機脇の柱にもたれるように立っていた陽菜が、目を見開いたままこちらを見ていた。
買い物帰りなのか肩に提げたトートバッグの口が少し開き、そこから文庫本の角が覗いている。偶然訪れたにしては、出来すぎているくらいの位置と間だった。
「陽菜?」
椿が先に反応する。陽菜は一拍置いてから、口元だけでゆっくり笑った。
「いや、ほんとに偶然なんだけどさ。駅出たらいきなり二人で改札から出てくるから、ちょっと脳の処理が追いつかないんだけど」
陽菜の視線が二人の足元の荷物へ落ち、次に上がる。蓮のバッグ、椿のキャリーケース、その並びだけで十分すぎる情報量がある。椿はそれに気づいた瞬間、眉を寄せた。
「……変な勘繰りはしないで」
「まだ何も言ってないって」
「顔に出てるのよ」
陽菜はそこで肩をすくめ、今度は蓮へ視線を向けた。
「天根くん、冬休み満喫してた?」
「まあな。椿のとこにお邪魔してたから」
あまりにも自然な口調で返された一言に、椿の反応が一拍遅れた。
「なっ……蓮くんのトレーニングのためでしょ! 目的語抜かないで!」
「? なんかダメだったか?」
蓮は本気で分かっていない顔で首を傾げる。椿は耳まで熱くなるのを自覚しながら、言葉を選ぶ余裕もなく吐き出した。
「ダメに決まってるでしょ……! その言い方だと、ただ私の家に泊まりに行ってたみたいじゃない」
「実際、泊まってはいたぞ」
「そういうことじゃないの!」
改札前の空気が一瞬だけ止まり、すぐ横を通ったサラリーマン風の男性が小さく視線を寄越して去っていく。椿はその視線にさらに頬を熱くし、陽菜はとうとう堪えきれないように吹き出した。
「いや、もう十分面白いんだけど」
「笑い事じゃないわよ……」
「ごめんごめん、でもー」
陽菜はそこでわざと間を作った。椿の肩が硬くなる。蓮は相変わらず状況を測りきれていない顔で陽菜を見る。
「それよりさぁ」
二人が同時に陽菜へ向く。
「いつから、下の名前で呼ぶ仲になったの?」
陽菜の愉快そうな声音に、椿の思考が一瞬真っ白になる。
「……っ、ち、違っ」
「違わないでしょ、今自分で呼んだよね?」
「これは、その、親御さんの前でそう呼ぶ流れに……」
「へぇ、もうご挨拶したの?」
陽菜の口元が、さらに吊り上がる。
椿は一瞬だけ言葉に詰まり、すぐに視線を逸らした。
「……だから、そういう意味じゃなくて」
「どういう意味でも、結構進んでる気はするけどなぁ」
「進んでない!」
即座に返す声が少しだけ強くなる。
「どういう意味だ?」
「あなたはちょっと黙ってて......」
そのやりとりに、陽菜は肩を揺らして笑いながら、今度は蓮を見る。
「天根くんはどうなの?」
「何がだ?」
「いや、そのままの意味で」
「そのままって言われても分からないな。冬休みは椿のとこでトレーニングしてただけだし」
「“だけ”ねぇ」
陽菜はわざとらしく繰り返す。
椿が小さく息を吐いた。
「だから、そう言ってるでしょ」
「うんうん、言ってる言ってる」
納得していない頷き方だった。
改札前の人の流れがそのまま横を抜けていく中で、三人だけがその場に残る形になる。
「……まあ、いいや」
陽菜が先に引いた。
「で、これから帰るの?」
「ああ」
蓮が答える。
「じゃあ私もそっちだから。途中まで一緒に行こーよ」
「……別にいいけど」
椿が渋々頷く。
三人はそのまま歩き出す。
歩幅は自然に揃う。会話は続かない。さっきまでのやり取りの余韻だけが残り、陽菜は何も言わずに前を向いている。
数分歩いたところで、分かれ道に差し掛かる。
「じゃ、私はこっち」
陽菜が立ち止まる。
「またね、椿」
「……ええ」
「天根くんも」
「ああ」
軽く手を振って、陽菜はそのまま去っていく。
振り返らない。
だが、あのまま終わる気がしない余韻だけが残る。
椿はその背中を見送ったあと、小さく息を吐いた。
「……最悪」
「何がだ?」
「何がって……」
言いかけて、止まる。
説明しようとすると、説明する内容そのものが面倒になる。
「……いい、なんでもない」
それだけで切る。
蓮もそれ以上は追ってこなかった。
二人はそのまま歩き、マンションへ入る。エントランスを抜け、エレベーターに乗る。
上昇の間、会話はない。
階数表示だけが静かに切り替わる。
到着音が鳴り、扉が開く。
部屋の前まで歩き、椿が自宅の鍵を取り出す。
「……とりあえず、荷物置いてくるわ。
そのあと、買い物行かなきゃ」
「分かった」
蓮は短く返し、自分のバッグを持ち直す。
「何買う?」
「タンパク源と炭水化物。あと野菜も少し足す。冷蔵庫の残量だと明日の分が足りない」
「了解。買い物は俺もいくよ。荷物持ちいるだろ?」
「ええ、そうしてもらえると助かるわ」
椿はそれだけ言って、鍵を回す。
二人はそれぞれの部屋へ一度荷物を置きに分かれる。
数分後、2人の影はエントランスにあった。
「行きましょ」
「ああ」
二人は並んでスーパーへと向かう。道中、会話はそれほど広がらない。
それでも歩幅だけは、自然に揃っていた。
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