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68食目 献身への感謝

 夕食の時間が近づくと、キッチンにはいつもよりわずかに張り詰めた空気があった。椿は手元の分量を崩さずに動かしながら、火加減と配置を同時に見ている。余計な確認は挟まない。並んだ皿は、普段蓮に出している構成と同じで、負荷と回復のバランスだけを前提に組まれている。


 リビングでは、正臣と志保がテーブルの配置を一度だけ見てから腰を下ろし、賢崇は席の位置を軽く整える。蓮はその動きを視界に入れながら、椅子を引いて座った。


「お待たせしました」


 椿が皿を運び終え、最後の一皿を置く。

 湯気が上がる。香りは強くない。だが、余計なものがない分だけ輪郭がはっきりしている。


「いただきます」


 声が揃い、食事が始まる。


 蓮は順番を崩さずに口に運ぶ。味の組み立てはいつも通りで、身体の中に落ちる感覚まで変わらない。

 正臣も一口運び、咀嚼してからわずかに頷いた。志保は箸を止めずに次へ進め、梓は楽しそうに二人の反応を見ている。


「……これが、普段の食事なんですか?」


 正臣が皿を見たまま言う。


「ええ。天根くんの状態に合わせて、日ごとに微調整はしていますけど、このような感じです」


 椿は視線を上げずに答える。

 正臣はもう一口食べ、今度は椿へ視線を向けた。


「内定のときにクラブの方から話がありましてね、食事面を見ている子がいると聞き、本人にも確認しました」


 正臣の目が、椿を捉える。


「椿さん。……君が、そうなんだと」


 椿の手が、ほんのわずかに止まる。


「はい」


 短く返す。

 正臣は一度だけ頷き、皿へ視線を戻す。


「正直、あの状態まで身体を整えられていた理由が分からなかったが、今日の食事を見て納得しました」


 静かな声だった。

 蓮は何も言わずに聞いている。


「プロの内定をいただけたのは、あいつの努力もあるでしょうが……」


 そこで一度、言葉が途切れる。

 正臣は箸を置いた。


「それを支えていたのは、間違いなくあなたでしょう」


 椿は顔を上げる。

 視線が正面から合う。


「ありがとうございます」


 正臣と志保が深く頭を下げる。


「そんな、上げてください。私にとっても天根くんの食事を作ることは夢へとつながることなので…

 お互いに利用しあっているだけですから、感謝されるようなことでは」


 今度は志保が、椿にしっかりと目を合わせて言った。


「いいえ。椿さん、例えそのようなきっかけであっても、私たちからしたら息子の将来へつなげてくれたことには代わりありませんのよ?だから本当に、ありがとう」


「い、いえ…こちらこそ、ありがとうございます……」


 言葉はそれ以上続かない。


 志保がそこで「そういえば」と、小さく笑う。


「ねぇ椿さん、さっきから思ってたんだけど」


 椿の肩がわずかに強張る。


「は、はい。なんでしょう?」


「そんなにかしこまらなくていいのよ?さっきみたいに」


 視線が逃げ場を探す。


「……さっき、というと」


「ほら、名前で呼んでいたでしょ」


 逃げ道はない。

 蓮が、隣で何も考えずに口を開く。


「別にどっちでもいいだろ」


「よくないのよ」


 志保が即座に返す。

 梓も楽しそうに頷く。


「せっかくだものねぇ」


 視線が集まる。

 椿は一度だけ息を吸い、視線を落とす。


「……れ、蓮くんは、もともと身体の使い方がとても上手で」


 言った瞬間、耳の奥が熱を持つ。

 だが止めない。


「必要な栄養を入れれば、その分だけ反応が返ってくる状態でした」


 言葉は整っている。


 だが、呼び方だけが浮いている。

 蓮は気にした様子もなく、皿に視線を落としたまま食事を続けている。


「だから私は、その反応を崩さないように、必要なものを入れていただけです」


 椿はそこで言葉を切る。

 正臣はそのまま聞いていた。


「その必要なものが、普通は分からないんですよ」


 静かに言う。


「量も、タイミングも。どれか一つでも崩れれば、あの状態にはならない」


 椿は何も言わない。


「それを、この年齢でやっている」


 正臣は小さく息を吐いた。


「大したものです」


 志保も頷く。


「ほんとにねぇ。あの子、昔から無茶ばっかりするから」


「母さん」


「だってそうじゃない」


 軽く流すように言って、志保は椿を見る。


「それを止めてくれてたのが、あなたなんでしょう?」


 椿は一瞬だけ言葉に詰まる。


「……止めきれてはいません」


 視線を落とす。


「この前も、見抜けなかったので」


 蓮が顔を上げる。


「それは違う」


 短く言う。

 全員の視線が集まる。


「俺が勝手にやっただけだ。椿は止めてた」


 正臣はそのやり取りを見て、小さく頷いた。


「なら尚更ですね」


 言葉を重ねる。


「止めきれなかったとしても、止めようとしてくれた。それで十分です」


 椿は視線を上げない。

 だが、指先の力だけがわずかに抜ける。


 食卓の空気は、静かに流れていく。

 特別なことは何も起きていない。


 蓮は最後の一口を口に運び、飲み込む。

 食べ慣れた、いつもの味だった。


 ただ一つだけ違うのは、その食事に向けられた言葉が、自分以外からも届いたということだけだった。


「ごちそうさまでした」


 椿は、皿に手を伸ばす。

 その動きは、いつもと変わらない。


 ただ――

 さっきの言葉だけが、まだ内側に残っていた。

 

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