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67食目 母親包囲網

 正月三日目の午後。朝から梓は掃除機をかけていた。

 リビングの窓から差し込む陽光は穏やかで、昨日までの初詣の喧騒を忘れさせるほどに室内を白く焼きつけている。


 蓮はソファの端に座り、膝の上で開いたノートにペンを走らせていた。昨日の休息日を経て、今日から再開したトレーニングのフィードバック。再現性の精度は、賢崇の予想を上回る速度で安定期に入りつつあった。


 すると突然、インターホンの音が、静かな室内に響く。

 梓の「はーい」という声とドアを開ける音に続き、玄関から落ち着いた、しかし張りのある声が重なった。


「失礼いたします。天根でございます」


 蓮はノートを閉じ、立ち上がる。隣で同じく姿勢を正した椿は、手に持っていた布巾を小さく畳み、リビングの中央で客人を待った。定規を当てたように真っ直ぐな彼女の背筋は、橘家の娘としての礼節と、栄養管理士としての強固な自制の形をしていた。


 リビングへ案内されてきたのは、蓮の骨格をそのまま一回り大きくし、柔和な表情を乗せたような壮年の男性と、蓮と同じ涼やかな目元を持つ女性だった。


「父さん、母さん。……遠かっただろ」


「いや、いいドライブだったよ。それより蓮、橘家の皆様に粗相はなかったかな?」


 父・正臣は息子に短く言葉をかけると、すぐに賢崇と梓へ向き直り、深々と頭を下げた。


「天根正臣です。こいつが冬休みの間、とんでもない我儘を言ってお邪魔していると聞きまして。……家内共々、心より感謝申し上げます」


「母の志保です。急に押しかけてしまってごめんなさいね。これ、心ばかりですが……」


 志保が差し出した手土産を梓が受け取り、和やかな空気の中で着席が促される。

 大人たちの間で年始の儀礼的な会話が交わされ、リビングは一気に年始らしい賑やかさに包まれていく。椿はその輪の端に座りながら、膝の上で指を組み、指先に力を込めて自意識を律した。


「……改めまして。橘椿です。天根くんには、いつもお世話に――」


「あら」


 志保が、ふっと笑った。


「“天根くん”じゃ、ちょっと紛らわしいわね」


 椿の言葉が止まる。

 志保は隣の夫を見て、わざとらしく肩を竦める。


「ここに天根、三人もいるもの。

 その呼び方だと、誰のことだか分からなくなっちゃうわね。気軽に名前で呼んでちょうだいな」


「はは、確かに」


 正臣が苦笑しながら頷く。


「天根くんだと、父さんまで振り向きそうだ」


「でしょう?」


 その流れに、梓がここぞとばかりに便乗する。


「そうよねぇ。お母様がそう仰るなら、椿もそうしなさいな。ね?」


 椿の視界が、わずかに揺れた。

 大人たちの視線が、温かく、しかし逃げ場のない包囲網となって自分を縛りつける。


 それは、これまで築いてきた「管理士と選手」という境界線を、自ら踏み越えるような重みがあった。

 喉が渇く。唇が「れ……」と動くが、そこから先が声にならない。


「……? どうした、椿。急に黙り込んで。具合でも悪いのか?」


 隣から、蓮の声が降ってきた。

 彼だけが、この場の空気の変化に気づかないまま、純粋な懸念だけを瞳に宿して椿を覗き込んでいる。至近距離から注がれる、真っ直ぐな視線。


 それが、トドメだった。


 このまま黙っていれば、それこそ不自然だ。

 椿は指先が白くなるほど膝を握りしめ、一度だけ深く、熱を孕んだ息を吸い込んだ。


「……っ。れ、……蓮くん……には、いつも、こちらこそ助けてもらっています」


 消え入るような声だった。

「蓮」と口にする瞬間の熱を、咄嗟に付け足した「くん」の一文字で中和しようとする、それは精一杯の抵抗だった。


 梓と志保が、一瞬だけ視線を交わす。

 言葉はなかった。ただ、互いの瞳の奥にある確信めいた温度を確認し合うように、二人の母親は満足げに口元を綻ばせた。その沈黙の肯定こそが、椿の耳をこれ以上なく赤く染め上げる。


「……そうか。ならいいんだが。……今の、少し声が震えていたぞ。無理をしていないか?」


 蓮は、椿の動揺の理由を体調や緊張に求めたまま、大真面目に顔を覗き込み続ける。


「蓮、あんたね。……少しは察しなさいな」

「……蓮。父さんでも、流石にそれくらいはわかるぞ……」


 志保と正臣、両親からの呆れたような視線に、蓮はますます不可解そうに眉を寄せた。


「察する……? ただの呼び方の変更だろう。何をそんな盛り上がることが――」


「もう、いいから……!」


 椿は、絞り出すような声で隣の正論を遮った。


 顔だけでなく手足の先まで脈打つような熱が巡る。一度口にしてしまった言葉は、もう取り消せない。

 明日から、たとえ呼ばなくても自分がこの名前を呼んだという事実は消え去らない。そのことが、じわじわと実感として胸に広がっていく。


 椿は逃げるように視線を落とし、湯呑みの中に浮かぶ茶柱を見つめた。

 対面に座る正臣と志保の、穏やかでいて全てを見透かしたような、温かな眼差し。そして隣から漂う、無自覚なまま自分を案じる蓮の気配。


「さあさ、どうぞ遠慮なく召し上がってください」


 志保の言葉に椿は、顔を上げずにゆっくりと菓子に手を伸ばした。


 管理士としての仮面は、もう、ボロボロに剥がれ落ちていた。

 それでも、自分の内に生まれた敗北感に似た高揚の正体を、彼女はまだ言葉にすることを拒んでいた。


 茶菓子に手を伸ばす大人たちの笑い声を聞きながら、椿はただ、自分の唇に残る『蓮くん』という響きの熱を、悟られないように静かに噛み締めていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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