66食目 萌蕾
朝の空気は昨日よりも少しだけ鋭く、外に出た瞬間に頬に触れる冷たさがはっきりと分かる。蓮はマフラーを軽く整え、靴紐を締め直してから玄関を出た。空は澄んでいて、遠くの音がいつもよりよく通る。
賢崇の車で、目的地の神社に向かう。
「やっぱり、人、多いわねぇ」
車の中から、梓がそうこぼした
神社の手前の道路にはすでに人の流れができていて、同じ方向へ向かう足取りが自然と揃っている。
付近の駐車場に車を停めた一行は、そのまま人の流れに合流する。
参道に入る前から密度は上がり、歩幅は自然と制限される。前との距離を詰めすぎればぶつかり、離せば流れから外れる。蓮は周囲の速度を見ながら位置を合わせる。
「はぐれないようにね」
梓はそう言うと、賢崇の腕に軽く手を回す。
二人はそのまま並んで進む。
蓮と椿はその後ろに位置を取る形になる。距離は詰まりすぎず、離れすぎず。流れに合わせて歩く。
鳥居をくぐる頃には、人の密度が一段上がる。横からの流れも混ざり、足元の自由がさらに減る。
前方で一度、流れが詰まる。
「おっと」
止まるほどではないが、速度が落ちる。
その隙間に、横から人が入ってくる。
椿の位置が、わずかに後ろへずれる。
蓮は、視界の端でそれを捉えた。腕を伸ばし、椿の腕を掴むと、そのまま引き戻した。
椿を引き戻したことを確認した蓮は、すぐに手を離した。
「前、詰まってるな」
それだけ言って、視線を前に戻す。
流れはそのまま続く。
椿は蓮のすぐ後ろに続くように、歩幅を合わせる。
二人の間に会話はない。
人の流れに押されながら、進む。
少し進むと、今度は後ろから圧がかかる。前に詰まり、横の人と肩が触れる。
足元の自由はさらに減り、周囲と距離を保つこと自体が難しくなる。
蓮は前方の空きと横の動きを見て、位置を微調整する。
椿はその後ろをついてくる。
また横から人が入り込みそうになった、その時。
思わず、椿は蓮のコートの裾を摘んだ。
力は強くない。
離そうと思えばすぐに離せる程度。
蓮は一度だけ視線を落とし、自分の裾を摘んでいる手を確認する。
「悪い、ちょっと歩くの早かったな」
そのまま再び前を見て、歩きだす。
やがて、境内の広い空間に出た。
急に視界が開ける。
人の密度が分散し、足元の自由が戻ると、自然と歩幅が広がる。
ゆっくりと、椿の手が離れる。
そのまま元の距離に戻る。
「こっちよー」
人の流れから少し外れたところで、梓が手を振っていた。
賢崇と並んで、少し先で待っている。
「すごい人だったわねぇ」
「例年通りだね」
賢崇が答える。
そのまま列に並び、前の流れに合わせて進む。参道ほどの押し合いはないが前後の間隔は詰まり、一歩進んでは止まる動きが続く中で順番が回ると、蓮は賽銭を入れて手を合わせて頭を下げ、そのまま位置を外す。
続いて前に出た椿も同じ動作をなぞるが、手を合わせてから顔を上げるまでの間だけがわずかに残り、そのまま一歩遅れて元の位置へ戻る。
そのまま流れに従って外へ出ると、行きよりも人は分散して歩く速度が安定し、四人は並び直して参道を戻る。会話は年始の予定や昼食の話に移り、特に変わったことはないまま歩く。
「あっ、おみくじあるわね。やっていきましょう?」
梓は参道の脇に置いてあったおみくじの箱をみつけ、そう提案した。
「いいね、せっかくだしやっていこうか」
そういって一行はおみくじを引く。
「私は大吉ね」
「私もだね」
梓と賢崇が、一足先に結果を開いていた。
「2人はどうだったかしら?」
「自分は中吉でした」
「え……凶なんだけど…」
「あら、凶は大吉より数が少ないって言うわ。逆にラッキーじゃない」
梓は椿をフォローするように言う。
「それに、今が谷底ならここから上がるしかないんだから、ね?」
「……うん」
一行は、おみくじを結び所に結びつけ、帰路につく。
だが椿には、凶の一文字よりも、おみくじのある部分の記載が、記憶に強く残っていた。
一行は参道を外れ、駐車場へ向かって歩く。行きとは違い人の流れは分散していて、歩幅は自然と広がり、前後の間隔にも余裕がある。会話はそのまま続き、梓が昼食の候補を挙げ、賢崇が混雑具合を見ながらいくつかに絞る中で、蓮は横で聞きながら必要な時間だけを頭の中で整理する。
「どこも混んでそうねぇ」
「少し外せば大丈夫だろう」
「じゃああそこにしましょうか」
決まると、そのまま車へ戻る。ドアを開けて乗り込み、シートベルトを締めると外の音が遮られ、車内の空気が落ち着く。エンジンがかかり、ゆっくりと車が動き出す。
移動の間も会話は続くが、内容は軽いままで、初詣の人出や年始の予定の話題が流れていく。
蓮はそれを聞きながら、午後の過ごし方を順に組み立てる。今日は休息日で、負荷はかけない。食事のタイミングと回復を優先する。
やがて店に着くと、入口に数組の待ちがあったが回転は早く、短い待ち時間で案内される。席に着き、それぞれが注文を決める。梓と賢崇がメニューを見ながら会話を続け、椿は内容を一度だけ確認してから決め、蓮はそれに合わせて量と構成を整える。
料理が運ばれ、食事が始まる。会話は続くが特に広がらず、そのまま流れていく中で、蓮は順番を崩さずに食事を進めた。
家に着くと、それぞれが自然に動き出す。梓は荷物を片付け、賢崇は車の確認をしてから中へ入り、椿はキッチンへ向かう。蓮は手洗いを済ませ、リビングの端で一度だけ体を伸ばす。
少しして、椿がキッチンから戻ってくる。手には温かい飲み物が二つあり、そのままテーブルに置くと、自分の分を手に取る。
「……飲む?」
「ああ、いただく。ありがとう」
短いやり取りで終わる。
蓮はカップを持ち、温度を確かめるように一度だけ口をつける。
リビングにはテレビの音だけが、空間に満ちていく。
椿はカップを両手で包み込み、昇り立つ湯気を見つめた。
結び所に置いてきたはずの言葉が、まだ指先に触れているような気がした。
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