65食目 年の瀬
朝、目を覚ましたとき、空気の冷たさは昨日と変わらなかった。
蓮は布団から起き上がり、室内の温度を一度だけ確かめてから立ち上がる。外はまだ明るくなりきっておらず、窓の外に見える空もいつも通りの色で、日付が特別であることを示すものは何もない。
洗面を済ませ、着替えを終え、時間を確認する。予定通りだ。
ドアを開けて廊下に出ると、家の中は静かで、キッチンの方からかすかに水の音が聞こえる。
そのままトレーニングルームへ向かう。
扉を開けると、賢崇はすでに中にいて、マットの位置を整えていた。
「おはようございます」
「おはよう。今日は大晦日だね」
「はい」
「とはいえ、やることは変わらない。整えて終わろう」
「お願いします」
いつもと変わらない、一日の始まり。
マットの上に立ち、足の位置を確認する。股関節の可動域を確かめ、重心を移し、体幹を固定したまま動作をつなげていく。
賢崇は少し離れた位置から見て、必要な箇所だけを短く指摘する。
「戻しを急がない。そこを揃えよう」
「はい」
一度止めて、最初からやり直す。
速さではなく、同じ形で通すことを優先する。昨日までに整えた動きを崩さないこと。それだけに意識を置く。
繰り返す。
同じ動きが同じ位置に収まるかを確認しながら、無駄な力を抜き、次へつなげる。
呼吸を合わせ、負荷のかかり方を揃える。
「今の形でいいよ」
賢崇が言う。
「深く入れようとしなくていい。そのまま維持することがまず大事だよ」
「分かりました」
その状態を数回繰り返し、最後にもう一度通す。
賢崇は一度だけ頷いた。
「今朝はここまでにしよう」
「ありがとうございます」
マットを離れ、軽く呼吸を整える。
窓の外は少しだけ明るくなっていた。
器具を元の位置に戻し、床を整えてから部屋を出る。
リビングに入ると、出汁の匂いが広がっていた。
キッチンでは椿が朝食の準備を進めている。鍋の前と作業台を行き来しながら、手元の食材を順に処理している。
計量された材料と下処理の済んだ食材が並び、動きに迷いがない。
「終わったの?」
椿が視線を上げずに言う。
「ああ」
「じゃあ先に水分取って。もう少しで朝食できあがるから」
「分かった。ありがとう」
いつもと変わらない、短い会話。
蓮はコップを取り、水を注ぐ。
一度に飲みきらず、二回に分けて飲む。体内の状態を確認しながら、無理のない量を入れる。
テーブルの端に置かれたメモに目を通す。
朝食後の補食と昼までの間隔が簡潔に書かれていて、昨日から変更はない。
朝食は時間はすぐに訪れた。
量も内容も調整されていて、余計なものはない。蓮は順番を崩さずに食べ、必要な分だけを摂る。
食後、賢崇は午前の内容を簡単に振り返り、次に繋げるポイントだけを伝える。蓮はそれを頭の中で整理し、要点を自分なりにまとめてノートに落とす。
椿は食後のタイミングを見て補食を出し、昼食に向けた準備に入る。
梓はその横で年越し用の食材を確認し、冷蔵庫と棚を行き来している。
家の中の動きはいつもより少しだけ多いが、慌ただしさはない。
午後のトレーニングは確認だけで終わった。
負荷は上げず、午前に整えた動きを崩さないまま通す。賢崇は細かい部分だけを見て、必要な箇所にだけ言葉を入れる。
「そこ、今のままでいいよ。その状態のままキープして」
「はい」
無理に変えない。
整っている部分をそのまま維持する。
一通り通して、終了する。
「今日はここで終わろうか」
「分かりました」
「かなり、軸もしっかりしてきたね。
インナーマッスルのトレーニング強度も上げていこう」
「はい、よろしくお願いします」
「それから、明日は休息日だからね。体を回復させよう」
「はい、わかりました。今日もありがとうございました」
お礼を告げた蓮は、器具を戻し、床を整えてから部屋を出た。
夕方になると、家の中に少しだけ変化が出る。
テレビでは年末番組が流れ、梓が普段より一品多く料理を用意し、賢崇がそれを見て軽く笑う。
椿はその横で、いつもと同じ手順で仕上げを進める。
盛り付けられた皿の配置は変わらないが、数だけが一つ増えている。
蓮はリビングの端からその様子を見ていたが、視線は一度だけキッチンへ向かい、すぐに戻る。
夕食の時間。
テーブルにはいつもより少しだけ多くの皿が並ぶ。湯気の立つ年末らしい料理たちが、所狭しと並んでいる。
「いただきます」
揃った声で食事が始まる。
蓮は順番を崩さずに箸を進める。
味付けは普段と同じで、量の調整だけが変わっている。
「今日は少しだけ特別よ」
梓が言う。
「ありがとうございます。美味しいです」
それだけで足りる。
会話は広げず、そのまま流れる。
賢崇が一言添え、梓が応じ、椿は何も足さずに食べる。
食卓のリズムは変わらない。
食事を終え、片付けを済ませる。
動きはいつも通りで、時間も変わらない。
リビングに戻ると、テレビの音が流れている。
テーブルの上に湯のみが並び、湯気がゆっくりと消えていく。
蓮はソファに座り、時間を確認する。
二十三時台。ストレッチも終えて、もうやることはない。
やがて、テレビ越しにカウントダウンが始まる。
数字が減っていく。
五、四、三、二、一……
――ゼロ。
「明けましておめでとう」
梓の声に続き、賢崇が言う。
「おめでとう」
「明けましておめでとうございます」
「......明けましておめでと」
蓮もそれに合わせる。
椿も同じ言葉を小さく言う。
蓮は一度だけ時間を確認する。
日付が変わっただけで、やることは変わらない。
立ち上がり、軽く体を伸ばす。
「先に休みます」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
挨拶を交わし、部屋へ戻る。
廊下は静かで、外の音も遠い。
部屋に入り、扉を閉める。
明日の流れを頭の中でなぞる。
ベッドに入ろうとすると、
―――コンコン。
ドアがノックされた。
蓮がドアを開けると、そこには椿が立っていた。
「椿?どうした?」
「別に。あけましておめでとうって、言いに来ただけ」
「さっきも言ったじゃないか」
「そうだけど、それだけじゃないの」
椿は変わらず、ぶっきらぼうに言い放つ。
「……今年もよろしく
それだけ。さっき言ってなかったから」
「ああ。たしかに。
今年もよろしく」
「……それじゃあ、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
お互いに改めて挨拶を交わし、ドアを閉める。
「今年も、か」
そう独りごちて、照明を落とした。
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