63食目 致命的な一言
夕方、窓の外がまだ明るさを残し、机に落ちる影は伸び切らないまま止まっている頃。
公園から帰宅した椿は、ノートとプリントを揃えて設問の条件を追い、ペン先を止めずにいた。
次々と問題をとき進め、途中で一度だけ見直してから次へ流している。
ふいに、スマホの通知音が響いた。通知を開くと、陽菜からメッセージがきていた。
【つばきー、宿題助けてー】
表示を確認した椿がすぐに通話を開始すると、二回の呼び出し音で繋がった。
「反応はやっ、暇してたの?」
「私も課題やってる最中よ。ちょうどよかったわ」
「そうなの?天根くんのご飯作ってる時間かと思ってたよ」
「……今は実家に帰省中だから」
「そっかー。まぁたまには羽伸ばしなよ」
「そうね」
「それはそうとさ、天根くんから離れると不安になんないの?ちゃんとご飯食べてるかなー、とか」
「彼、最低限の調理はできるから。……レシピも置いてきたし大丈夫のはずよ」
「へぇ、手料理食べたことある?」
「ないわよ。最初のころは作ったものの写真送られてたから」
「へー」
「……聞いといてそれ?」
「いいじゃん別にー」
「はぁ……それで?どこで詰まってるの?」
通話をつなげてから、椿はペンを持ち直し、プリントの問題を解き進めていく。
「栄養学のエネルギー換算のとこー。なーんか途中でズレるんだよね」
「単位揃えてる?」
「たぶん……」
「たぶんでやらない。最初に揃えてから計算」
「はーい」
軽く流す声に対して、椿はそのまま続ける。
「炭水化物と脂質の係数、途中で混ぜないで。入れ替えると合わなくなるわよ」
「あ、それかぁ。ちょっと待ってね」
紙をめくる音が入り、その間に椿は一行進め、途中で一度だけ式を見直して係数の位置を確認し、そのまま最後まで通す。
「……できた、これで合う?」
「見せて」
「カメラ向けるねー」
映ったノートを一瞥し、椿は頷きながら自分の式と照合する。
「そこまでは合ってるわね。そのまま最後までやってみて」
「はーい」
会話はそのまま続き、設問ごとに確認を挟みながら進み、解答の速度は自然に揃っていく。
椿がプリントを終えかけた頃、ようやく陽菜も苦戦していた問題を解き終えるようとしていた。
「この計算でラスト?」
「そうね」
「終わったら見てほしいな」
「いいわよ」
紙を擦る音が続き、少しの間のあとで向こうの声が戻る。
「できた!見てー」
「ええ」
画面越しに映るノートを確認しながら、椿は一行ずつ視線を滑らせ、途中で一度だけペン先で自分の式をなぞってから差分を拾う。
「……脂質の係数のとこ、逆じゃないかしら?」
「え、また?」
「さっきと同じままになってしまってるわね」
「うわー、マジだ」
「そこ直せば合うと思う」
「はーい」
訂正されていく行を追いながら、自分のノートと照らし合わせて最後の数値まで一致するのを確認して、ペンを置く。
「これで全部?」
「うん、たぶん」
「なら大丈夫」
「助かったー」
「次からは最初に揃えてるのよ」
「分かってるってばー」
軽く笑う声が続き、通話はそのまま終わりに向かいかける。
「じゃあ、私そろそろご飯の準備を手伝うから」
――そのときだった。
ドアの向こうから声が届いてくる。
『椿ー。それから蓮くーん、ちょっとこっち手伝ってちょうだーい』
一拍、時が止まったような気がした。
椿の手が止まり、スマホを持っていた指先に力が入る。
――今の一言が、そのまま通話に乗ってしまった。
「……え」
短い声が届いた瞬間、椿は通話を切る。
音が途切れ、画面が暗くなる。
そのままスマートフォンを机に置いたまま、椿は動かない。
さっき交わしたやり取りが頭の中で並ぶ。
実家に帰省中。
蓮はいないかのような物言い。
その後に響いた、梓の声。
余計な説明を挟む余地がない形で、そのまま繋がってしまう。
椿は視線を落としたまま、ゆっくりと息を吐く。
相手はあの陽菜だ。あの一瞬でも答えにたどり着く可能性は高い。
「最悪の事態ね……」
小さく漏らしたあと、スマートフォンが震える。
恐る恐る通知を確認すると、
【教えてくれてありがと!助かった!】
【また色々と教えてね!】
そこに表示されていた二行は、いつもと同じ温度で並んでいた。
何も変わっていない形なのに、そこに含まれている一言が引っかかる。
――色々と教えてね!
あの声については触れられてはいない。
だが、含まれているようにしか思えない。
椿は画面を見たまま、指を動かせない。
いつも通りに返せば、それで終わるはずの流れ。
短い文を打って送る、それだけの手順が繋がらない。
椿は一度だけ視線を外し、息を整えてから再び画面に戻す。
送る内容は決まっている。
それでも、触れる直前で止まる。
「……はぁ」
小さく息を吐き、椿は額に手を当て、再び大きくため息をついた。
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