58食目 橘家
終業式の後、校門を出たところで蓮は一度だけ足を止め、グラウンドから断続的に響いてくるボールの音と掛け声に短く視線を向けた。
ボールの音が、一定の間隔で響いている。もう、部活は始まっているらしい。
しばらくそのまま見てから、何も言わずに視線を外し、そのまま歩き出した。
自宅に戻ると玄関には既にスーツケースが置かれていた。
リビングの扉の向こうからは、「遅い」と椿の声が飛んでくる。
「準備は?」
「終わってる」
短く返してそのまま自室に入り、あらかじめ用意していた服に着替え、シューズとノートをバッグに詰めて口を閉じる。
余計な確認はせず、そのままリビングに戻った。
「行くわよ」
「ああ」
二人はそのまま家を出た。キャリーケースの車輪が路面を擦る乾いた音だけを背後に引きながら、駅までの道を並んで歩く。
会話らしい会話は交わさないまま改札を抜けて電車に乗り込み、空いた席に並んで腰を下ろすと、流れていく景色の中で見慣れた街並みが少しずつ切り替わっていくのを黙って眺めた。
「ここからどれくらいかかるんだ?」
「2回乗り換えして、3時間半くらいね」
「そこそこ遠いな」
「まあね」
それ以上は続かず、電車の揺れと車内アナウンスだけが時間の経過を知らせた。
やがて降車駅に着くと二人は無言のまま立ち上がって改札を抜けた。
肌に当たる空気の温度と乾きが明らかに変わったのを感じながら、人通りの少ない駅前を抜けて住宅街へ入ると、舗装の状態や建物の配置を横目に見ながら奥へ進んでいく。
やがて椿が足を止めた先には、住居とそれに連なる別棟が同じ敷地内で機能を分けるように並んでおり、外観に派手さはないものの動線の整理された造りが一目で分かる。
「ここよ」
そう言うと椿は、鍵を使って扉を開ける。
いつものマンションとは、違う鍵。
「ただいま」
すぐに奥から足音が近づき、「おかえり」と明るい声が返ると女性が姿を見せ、椿の後ろに立つ蓮を一度で見切るように視線を動かした。
「この子が?」
「そう、天根くん」
蓮は軽く頭を下げる。
「天根蓮です、お世話になります」
「話は聞いてるわ。遠かったでしょ、上がってちょうだい」
促されるまま中に入り靴を脱ぐと、室内は余計な装飾がなく、生活と動作が無理なく繋がる配置でまとめられているのが分かる。
「お父さんは?」
椿が聞くと、女性は隣の建物を示す。
「向こうよ。さっきまでいたから、今もいると思うわ」
椿は一度だけ頷き、振り返って蓮を見る。
「行く?」
「行こう」
「わかった。
……お母さん、お父さんのところに行ってくる」
「はーい、いってらっしゃい」
二人はそのまま外に出て隣の建物へ向かった。
扉の前で椿が一瞬だけ足を止めて「ちょっと変わってる人だから」とだけ言ってからドアを開けると、室内は器具が用途ごとに整理され無駄なスペースを残さない配置で並んでいる。
奥に一人、男性がいた。
こちらに気づくと、ゆっくりと顔を上げる。
視線が、蓮に向く。
ただ、立ち姿をなぞるように視線が滑る。
足幅、重心の置き方、肩の高さ、腕の位置、呼吸の間隔――一つずつ確認するように、順に拾っていく。
「……なるほどな」
低い声だった。
蓮は一歩前に出る。
「話は聞いているよ、よく来たね」
「天根蓮です、よろしくお願いします」
「ポジションは?」
「トップ下です」
男性ー 橘 賢崇ー はわずかに頷くと、蓮へと近づく。
「ふむ」
蓮は微動だにせず、流れに身を任せる。
賢崇は蓮のすぐそばまで来ると、両手で蓮の体をまさぐる。
「筋肉量のバランスはいいようだ。栄養バランスがしっかりしている証拠だね。
それに、この筋肉の付き方……いなして躱すのが得意かな?」
蓮は動きを止めたまま、橘の動きを視線のみで追う。
「はい……今のだけで、そこまで?」
蓮の問いに、橘は手を止めず、そのまま肩から腕へと触れる位置を変えながら、わずかに口元を動かす。
「見るところを絞ればね。余計な情報は要らない」
肩の位置を軽く押し、次に背中へと手を回す。
「力の逃がし方が上手い。正面から受けないで、流して外す癖がついている」
そのまま一歩引き、全体を見直す。
「いい選択だ。無理に当たらない分、プレーの幅は広がる。
まるで柳のようなスタイルだ」
賢崇の声のトーンは変わらない。
「しなることで力を逃がす。無理に受けないで、いなして、流して、次に繋げる。
でもね――」
そこで初めて視線が合わさる。
「柳のしなやかさは、その軸になる茎の強さがあってこそだよ」
そのまま蓮の身体を指で軽く示す。
「今の君は、その軸がまだ柔い」
静かな言葉だった。
だが確かに、蓮の逃げ場を無くす言葉。
「インナーマッスルと体幹。この二つを軸に鍛えることをおすすめするよ」
それだけ言う。方向は明確だった。
蓮は一度だけ頷く。
「異論ありません」
短く返す。
賢崇はそこで初めて、はっきりと頷いた。
「依頼料は受け取っているんだ。こちらも仕事として向き合うよ」
椿はこの間、何も言わなかった。
ただ、横で聞いているだけだ。
蓮は一瞬だけそちらに視線を外し、すぐに戻す。
「よろしくお願いします」
そう言って、頭を下げた。
賢崇はその反応を見て、わずかに口角を上げる。
「いいね。じゃあ、早速と言いたいところだが、
今日はもう遅いからね。明日からだ」
そういうと賢崇は2人を伴い、外へ出る。
「そういえば天根くんはどこから通うんだい?
今日はもう遅いから送っていくよ」
その発言に、椿が初めて割り込む。
「どういうこと?お母さんから、天根くんもこの期間中はうちに滞在していいって聞いてるけど?
というか、お母さんからそう言ってきたけど」
「……なんだって?」
賢崇の動きが止まる。
ほんの一瞬、視線が椿へ向く。
「すまない、椿。今なんて言ったんだい?」
「だから、天根くんはうちに泊まるって。お母さんがそう言ってた」
椿は淡々と繰り返す。
賢崇は数秒、黙ったまま二人を見る。
そのまま、今度は蓮へ視線を移す。
「君は聞いているのかい?」
「は、はい。部屋は空いてるから、と」
蓮の答えに、賢崇は腕を組む。
わずかに天井を見上げ、何かを整理するように間を置く。
「……なるほど」
小さく呟く。
次の瞬間、表情がわずかに崩れた。
「うちの妻は、そういうことを勝手に決める人間だったな」
諦めたように言う。
椿も呆れた様子だった。
「まぁ、その方が効率がいいかな。食事管理もできるし。ね、椿」
「……うん」
住居の玄関に戻ると、扉の向こうからすぐに声が飛んできた。
「おかえりなさい」
橘母がどこか得意げ様子で顔を出す。
そのまま蓮の方を見る。
「お部屋はもう用意してあるから、安心していいわよ」
「ありがとうございます」
蓮は頭を下げる。
「何かあれば遠慮せず言ってね、椿の部屋の隣だから」
「……は?」
椿の声が、わずかに上ずる。
「ちょっとお母さん、それは聞いてない」
「言ってないもの」
あっさり返す。
「空いてるのそこしかないし」
「いや、あるでしょ他にも」
「ないわよ、みーんな物置だもの」
即答だった。
椿が言葉に詰まる。
賢崇はそのやり取りを横目に見ながら、苦笑いを浮かべている。
蓮は一度だけ椿を見る。
椿は視線を逸らしたまま、明らかに落ち着いていない。
「……問題ありません」
蓮は淡々と答える。
「いや、あなたは問題あるって言いなさいよ」
椿が即座に返す。
橘母は楽しそうに笑う。
「仲いいわねぇ」
「違うから」
即否定だった。
その様子を見守っていた賢崇は小さく息を吐き、
「さぁ、とりあえず夕食にしようか」
それだけ言い残すと、そのままリビングへ向かっていった。
蓮はバッグを持ち直す。
用意された部屋へ向かうために、廊下へ足を踏み出す。
そのすぐ隣で、椿が足を止めたまま動かない。
わずかに顔が赤い。
「……ほんとにいいの?」
蓮は小首を傾げながら答えた
「別に、いつもと変わんないだろ?」
「……バカ」
廊下の先に、並んだ二つの扉。
その距離は、これまでよりも確実に近かった。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
「おもしろい」「続きが気になる」と思っていただけたら、ぜひ下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援をお願いします!




