59食目 名字
部屋に荷物を置いて扉を閉めると、蓮はジャージに着替え、そのまま部屋を出た。
廊下に出て、リビングへと向かう。
リビングでは既に椿と橘母が調理を始めていた。
「……もういいの?」
「ああ、着替えるだけだったから」
それだけ聞いた椿は、皿への盛り込みを再開する。
すでに橘母がある程度進めていたのか、既に終わりかけだったようだ。
「橘さん、なんか手伝うことは……」
「大丈夫よ」
「あら、お客さんなんだからゆっくりしてて頂戴」
「お気遣いありがとう。2人に任せてもらって大丈夫だよ」
三人が揃って反応し、顔を見合わせる。
橘母が愉快そうに告げる。
「ここ、みんな橘だからややこしいのよね。名前で呼んで頂戴?」
「わかりました。えっと……」
「そういえば、自己紹介がまだだったわね。
椿の母、橘 梓です。娘がいつもお世話になっています」
「梓さん、改めてお世話になります。賢崇さんも、よろしくお願いします」
「ええ、こちらこそよ」
「トレーニング外では、実家だと思って過ごしてもらっていいからね」
「ありがとうございます。
……椿、やっぱりなんか手伝おうか?」
「なっ……あんた躊躇いってもんがないの…?」
「なにが?」
「名前を呼ぶことに関してよ。あっさり呼び方変えちゃって」
「別に、そんな気にすることじゃないだろう?」
「これだから海外帰りは……
はぁ。とりあえず準備は大丈夫だから座ってていいわよ」
「そうか、わかった」
蓮は大人しく席に着いた。
ぶつぶつと頬を赤らめながら文句をこぼす椿の隣で、梓が頬に手を当てながらため息をつく。
「この子ったら、名前呼びくらいでこんな動揺しちゃって」
「うるさい、慣れないもんはしょうがないでしょ」
「先が思いやられるわぁ」と言いながら、椿がよそった皿をテキパキと食卓へと運ぶ。
「さぁ、冷めないうちに食べましょ」
「「いただきます」」「……いただきます」
蓮も箸を取り、おかずに手を伸ばす。
最初の一口で、蓮は視線を皿に落とした。味の組み方は椿のものに近い。だが同じではない。塩の立て方も、火の入れ方も、輪郭が少し違う。
「……椿、これ美味いな。でも、いつもと調味料が違う?」
空気が一瞬止まった。
椿の手が、わずかに止まる。
「それ、お母さんが作ったの」
「そうなのか」
蓮は梓を見る。
「とても美味しいです。ありがとうございます」
「あら、いいのいいの。味付けは椿が横からうるさかったけど」
「お母さん」
椿が低く言う。
その様子に、梓は楽しそうに笑うだけだった。
蓮はもう一口食べる。焼き魚の火の入り方がちょうどいい。汁物も、身体の奥に落ちる温度まで計算されているようで、電車移動のあとにこれが出るなら、確かに外に泊まるよりこの家にいた方が合理的だった。
「明日の朝食は私が作るから」
椿が皿を見たまま言う。
「六時前には食べられるようにしておくわ」
「助かるけど、たまにはゆっくりしたらどうなんだ?」
「あなたの食事を作るのはルーティンになってるから、作らないほうが狂うのよ」
「そうか、ここでも世話になるな」
「いいのよ」
そのやり取りを聞きながら、梓も賢崇も何も口を挟まずに食事を進めている。ただ一度、椿が蓮の皿の減り方を見てから次の小鉢を寄せた瞬間だけ、視線が二人の間を静かに通った。
「椿、ちゃんと食べてる?」
梓が言う。
「食べてるわよ」
「嘘。天根くんに気を取られて進み遅いわよ?」
「取られてない」
即答だった。
蓮はそのまま味噌汁を飲み、椿の皿を見る。確かに量は少ない。
「椿」
「なによ」
「たしかにいつもより進み遅くないか?」
「……うるさい。気のせいよ。
あなたこそ、ちゃんと噛んで食べなさいよ」
「いつもそんなこと言わないだろ……
それに、ちゃんと噛んでる」
「見れば分かるわよ」
梓がまた愉快そうに笑う。
「ほんと、仲いいわねぇ」
「違うから」
椿はまたもぶっきらぼうに返した。
その様子に、食卓が一瞬だけ静かになり、次の瞬間、梓が声を上げて笑った。
椿は明らかに不機嫌そうな顔で魚をほぐしている。賢崇はすでに食事を終え、二人を一度ずつ見てから小さく息を吐いた。
「トレーニングは明日、六時からやろう」
「はい」
蓮は即座に返した。
「返事だけはいいのね」
椿がぼそりと落とす。
「返事“は”ってなんだ」
「そのままの意味よ」
夕食を終えると、蓮は席を立つ。
「椿、片付け――」
「いい。座ってて」
「でも」
「いいから」
遮るように言って、椿は皿を重ねる。その動きに無駄はなく、梓も当然のように立ち上がって流しへ向かった。
蓮は一度だけ立ったまま止まり、結局そのまま椅子に座り直す。
2人の一連のやり取りを見ていた賢崇が、蓮に話しかける。
「いつも、椿の手伝いをしてくれているのかい?」
「はい。作ってもらう上に片付けまでしてもらうのは忍びなくて」
「いい心がけじゃないか。でも、遠慮しなくていいんだよ。
椿はああ見えて世話焼きだからね。尽くしたいタイプなんだよ」
「ちょっと、お父さん!」
キッチンから抗議の声が飛んでくる。
橘家は賑やかだった。
水の音が流れ、皿の触れる音が重なる。リビングの空気は静かだったが、居心地が悪いわけではない。ただ、マンションの食卓とは違って、人数が増えたぶんだけ会話の行き先が増えている。
片付けを終えた椿が、キッチンから戻ってきた。
「天根くん。お風呂、先に入っていいわよ」
「いや、お世話になる身だから最後でいいんだが」
「いいのよ。お父さんも言ってたでしょ。実家のように過ごしていいって
遠慮しないで」
「……わかった」
蓮は短く返し、立ち上がる。
「では、お先にお借りします」
「はーい、どうぞ。タオルは脱衣所に置いてあるの使ってね」
「わかりました」
そう言うと、蓮は風呂場へと向っていった。
リビングに残った椿に、梓が再びニヤニヤしながら話しかける。
「それで?椿は天根くん呼びのままなの?」
「……別にいいでしょ。ここには天根くんは彼しかいないんだし」
「そうねぇ。恥ずかしいのかしら?」
「違う。そんなんじゃない」
即答し、視線を逸らす。
そんな娘の様子に、梓はそれ以上は言わず、ただ微笑むように笑っていた。
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