表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
55/95

54食目 再契約

 食事は、もう終わりかけていた。

 蓮は残っていた一口を口に運び、ゆっくりと噛む。味は変わらない。必要なものだけを削り出したような構成の中で、食べる側の負担だけが計算されている。


 飲み込んでから、水を一口。

 喉を通る感覚と同時に、右脚の奥に残る鈍い熱を意識する。


 キッチンでは、椿が背を向けたまま手を動かしていた。包丁の音が一定の間隔で続いている。

 蓮はその音をしばらく聞いてから、口を開いた。


「……すまない」


 包丁の音が止まる。

 だが、椿は振り返らない。


「今日、桐生先輩にも言われたんだ。焦っても、いいことはないって」


 少し間を置く。


「……分かってたつもりだった」


 そこで一度、言葉が切れる。

 椿は何も言わない。


「でも、あの試合で何もさせてもらえなかった」


 声は落ち着いている。

 だが、抑えきれない何かが、わずかに滲む。


「このままじゃダメだって、もっと強くならなきゃって。

 それで……このザマだ」


 視線が、右脚に落ちる。

 キッチンは静かなままだ。


「……橘さんの忠告を無視して、隠れてやって。

 橘さんの管理から外れた途端に、この結果だ」


 椿の指先が、わずかに動いた。


「……だから、ごめん」


 沈黙が落ちる。

 椿はゆっくりと息を吐き、こちらを振り向く。


「それでも、私は管理栄養士よ。あなたの体調の変化には敏感に気づくべきだった

 それなのに、壊してしまった。誰がなんと言おうと、私にも責任はあるわ。例えあなたでも、それは否定させない」


 椿の断固とした意思を写した瞳に、蓮は苦笑を浮かべる。


「頑固だな。徹底して隠してたんだから無理もないってのに」


「なんで、隠してたの?」


「だって怒られるだろ」


「子どもなの……?」


 今度は呆れたような目線と苦笑がキッチンから飛んできた。


「……次は、やり方変える」


「どう変えるの?」


 短い問い。

 蓮はすぐには答えなかった。

 視線を落とし、言葉を探す。


「……少なくとも隠れてやるのは、やめる」


 それだけ言う。

 椿はしばらく黙っていた。


 視線は外さない。


「……本当は、気づいてた」


 小さく口を開く。

 だが、その先が続かない。

 ほんの一瞬、言葉が止まる。


「……でも、止められなかった。止めようとすると、あの日のあなたの悔しそうな顔が浮かんで……

 だから少しでも回復が進むようにメニューを調整して、でも、足りなかった。

 だから……」


「……もう、やめて。無理をするのは。」


 それだけ。

 蓮が顔を上げる。

 椿の視線は逸れていない。


「少なくとも、今の私じゃ追いつけない」


 それ以上は言わなかった。


「橘さんでできないなら、誰にもできやしないな」


「……え?」


「橘さんは、これまで完璧以上に俺のサポートをしてくれていたんだ。橘さんでできないことは他の誰にもできないだろう。

 不可能なことを前提に行動するほど、非合理的なことはないな」


 蓮の瞳が、椿をしかと捉える。


「もう、隠さない。橘さんも、無理してるって思ったら止めてほしい」


「当たり前でしょ、ひっぱたいても止めるわよ」


 蓮は少しだけ口角を上げた。


「それは怖いな。逆らわないようにしよう」


「一方通行じゃダメ」


 椿が、蓮の正面に腰掛ける。


「私は、栄養面で忠告はできる。けどあなたの体はあなたが一番わかるはずよ。

 だから、天根くんからもまだやれるかどうかの意見をちょうだい」


「……そうだな。いつぞや橘さんが言ったな。対等な取引、か。」


 椿は一瞬だけ目を伏せた。

 すぐに顔を上げる。


「そう。どっちかが無理を押し通す関係は、長く続かないわ」


 静かな言葉だった。


「私が全部決めるわけでもないし、あなたが全部決めるわけでもない。

 その間で、一番いいところを探すの」


「……ああ、そうしよう」


 それ以上は、何も言わなかった。

 再び訪れた沈黙。だが、さっきとは違う静寂の時間。


 完全に元通りではない。

 昨夜のことが消えたわけでもないし、互いの中に残っているものも整理しきれてはいない。


 それでも――


「さて、もう食べ終えたかしら?お皿下げるわね」


「いや、それは俺が――」


「怪我人はおとなしく座ってなさい。当面は片付けまで私がやるわ」


 静寂に耐えかねたのか、椿が片付けを始める。

 皿の当たる音が、静寂を切り裂いていく。


 窓の外では、秋の風が鳴っている。

 冷たいはずの空気が、どこか少しだけ、柔らいで感じられた。


 皿の音が、規則正しく重なる。


 蓮は椅子に座ったまま、その音を聞いていた。

 右脚の奥に残る熱は、消えていない。

 むしろ、はっきりとそこにある。


 だが――

 それをどう扱うかは、もう一人で決めるものではない。


 キッチンに立つ背中を、視界の端に捉える。


 何も言わない。

 言う必要もなかった。


 さっき交わした言葉だけで、十分だった。

 皿の音が止まり、布の擦れる音がする。


 そのリズムは、もう崩れていない。

 蓮は静かに息を吐いた。


 ――これでいい。


 そう思えたのは、初めてだった。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


「おもしろい」「続きが気になる」と思っていただけたら、ぜひ下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援をお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ