54食目 再契約
食事は、もう終わりかけていた。
蓮は残っていた一口を口に運び、ゆっくりと噛む。味は変わらない。必要なものだけを削り出したような構成の中で、食べる側の負担だけが計算されている。
飲み込んでから、水を一口。
喉を通る感覚と同時に、右脚の奥に残る鈍い熱を意識する。
キッチンでは、椿が背を向けたまま手を動かしていた。包丁の音が一定の間隔で続いている。
蓮はその音をしばらく聞いてから、口を開いた。
「……すまない」
包丁の音が止まる。
だが、椿は振り返らない。
「今日、桐生先輩にも言われたんだ。焦っても、いいことはないって」
少し間を置く。
「……分かってたつもりだった」
そこで一度、言葉が切れる。
椿は何も言わない。
「でも、あの試合で何もさせてもらえなかった」
声は落ち着いている。
だが、抑えきれない何かが、わずかに滲む。
「このままじゃダメだって、もっと強くならなきゃって。
それで……このザマだ」
視線が、右脚に落ちる。
キッチンは静かなままだ。
「……橘さんの忠告を無視して、隠れてやって。
橘さんの管理から外れた途端に、この結果だ」
椿の指先が、わずかに動いた。
「……だから、ごめん」
沈黙が落ちる。
椿はゆっくりと息を吐き、こちらを振り向く。
「それでも、私は管理栄養士よ。あなたの体調の変化には敏感に気づくべきだった
それなのに、壊してしまった。誰がなんと言おうと、私にも責任はあるわ。例えあなたでも、それは否定させない」
椿の断固とした意思を写した瞳に、蓮は苦笑を浮かべる。
「頑固だな。徹底して隠してたんだから無理もないってのに」
「なんで、隠してたの?」
「だって怒られるだろ」
「子どもなの……?」
今度は呆れたような目線と苦笑がキッチンから飛んできた。
「……次は、やり方変える」
「どう変えるの?」
短い問い。
蓮はすぐには答えなかった。
視線を落とし、言葉を探す。
「……少なくとも隠れてやるのは、やめる」
それだけ言う。
椿はしばらく黙っていた。
視線は外さない。
「……本当は、気づいてた」
小さく口を開く。
だが、その先が続かない。
ほんの一瞬、言葉が止まる。
「……でも、止められなかった。止めようとすると、あの日のあなたの悔しそうな顔が浮かんで……
だから少しでも回復が進むようにメニューを調整して、でも、足りなかった。
だから……」
「……もう、やめて。無理をするのは。」
それだけ。
蓮が顔を上げる。
椿の視線は逸れていない。
「少なくとも、今の私じゃ追いつけない」
それ以上は言わなかった。
「橘さんでできないなら、誰にもできやしないな」
「……え?」
「橘さんは、これまで完璧以上に俺のサポートをしてくれていたんだ。橘さんでできないことは他の誰にもできないだろう。
不可能なことを前提に行動するほど、非合理的なことはないな」
蓮の瞳が、椿をしかと捉える。
「もう、隠さない。橘さんも、無理してるって思ったら止めてほしい」
「当たり前でしょ、ひっぱたいても止めるわよ」
蓮は少しだけ口角を上げた。
「それは怖いな。逆らわないようにしよう」
「一方通行じゃダメ」
椿が、蓮の正面に腰掛ける。
「私は、栄養面で忠告はできる。けどあなたの体はあなたが一番わかるはずよ。
だから、天根くんからもまだやれるかどうかの意見をちょうだい」
「……そうだな。いつぞや橘さんが言ったな。対等な取引、か。」
椿は一瞬だけ目を伏せた。
すぐに顔を上げる。
「そう。どっちかが無理を押し通す関係は、長く続かないわ」
静かな言葉だった。
「私が全部決めるわけでもないし、あなたが全部決めるわけでもない。
その間で、一番いいところを探すの」
「……ああ、そうしよう」
それ以上は、何も言わなかった。
再び訪れた沈黙。だが、さっきとは違う静寂の時間。
完全に元通りではない。
昨夜のことが消えたわけでもないし、互いの中に残っているものも整理しきれてはいない。
それでも――
「さて、もう食べ終えたかしら?お皿下げるわね」
「いや、それは俺が――」
「怪我人はおとなしく座ってなさい。当面は片付けまで私がやるわ」
静寂に耐えかねたのか、椿が片付けを始める。
皿の当たる音が、静寂を切り裂いていく。
窓の外では、秋の風が鳴っている。
冷たいはずの空気が、どこか少しだけ、柔らいで感じられた。
皿の音が、規則正しく重なる。
蓮は椅子に座ったまま、その音を聞いていた。
右脚の奥に残る熱は、消えていない。
むしろ、はっきりとそこにある。
だが――
それをどう扱うかは、もう一人で決めるものではない。
キッチンに立つ背中を、視界の端に捉える。
何も言わない。
言う必要もなかった。
さっき交わした言葉だけで、十分だった。
皿の音が止まり、布の擦れる音がする。
そのリズムは、もう崩れていない。
蓮は静かに息を吐いた。
――これでいい。
そう思えたのは、初めてだった。
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