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55食目 テーピング

 夕方。天根家のリビングは、昼間よりも静かだった。

 風呂から上がった蓮はソファに腰を下ろし、右脚を伸ばしたまま動かさない。無理に固定しているわけではない。ただ、そうしている方が自然だった。


 テーブルの上には、ノートとペン。

 開かれたまま、ほとんど書き込まれていない。


 視線だけがそこに落ちている。


「……何してるの?」


 キッチンから、椿の声が飛んできた。


「一応、整理」


「何の?」


「復帰までにやること」


 椿は少し間を置いてから、こちらへ歩いてくる。

 手にはボウル。中身は刻まれた野菜だった。


「白紙じゃない」


「……まだ途中だ」


 椿はテーブルの横に立ち、ノートを覗き込む。

 数秒だけ見て、小さく息を吐いた。


「抽象的すぎるわよ、まったく」


「そうか?」


「“強度上げる”って、何をどう上げるのか書いてないじゃない」


「……そこはこれから詰める」


「詰める前に、今やることあるでしょ」


 淡々とした口調だった。

 責めているわけではない。ただ、順番を正している。


 蓮はペンを置いた。


「……何だ?」


「回復よ。今のあなた、トレーニング以前の段階よ」


「分かってる。だから、今はノート開いてる」


 椿はボウルをテーブルに置き、そのまま向かいに座る。


「それならいいけど。

 ……どのくらい?」


「何が」


「足の痛み。まだ痛むでしょ」


 蓮は少し考える。


「……歩く分には問題ないな」


「それは聞いてないわよ。痛み具合の話」


「――力を入れると、引っかかる」


「そう。今日のストレッチは?」


「まだ、これから。手伝ってもらってもいい?」


「ちょっと待って、野菜をキッチンに置いてくるわ」


 椿は立ち上がり、ボウルを持ってキッチンへ戻る。

 水の音が短く響いて、すぐに止んだ。


 戻ってくると、今度は迷わず蓮の前に立つ。


「後ろ、支えるだけでいい?」


「……ああ」


 椿はそのまま背後に回る。

 膝をつき、両手で軽く支える位置を探る。


「……いいわよ」


 短く、それだけ言う。


 蓮は頷き、ゆっくりと脚を伸ばした。

 動きは慎重だった。無理に押し込まず、張りが出る手前で止める。


 そのまま、数秒。


 呼吸を整える。


 椿は何も言わない。

 ただ、視線だけが蓮の脚の動きを追っている。


 蓮は一度だけ息を吐き、さらにわずかに伸ばした。


「……ここだな」


 小さく呟く。

 椿は、押す手を緩める。


 数秒キープし、蓮はゆっくりと力を抜いた。

 椿も、同じタイミングで手を離す。


「ありがとう」


 ストレッチを数セット終えたあと、蓮は再びソファに戻った。


「あっと、テーピングまかないと」


 そう言って立ち上がろうとした蓮を、椿が制止する。


「持っていくから、座ってなさい」


 椿はそのまま立ち上がり、テーブルの脇に置かれていた小さなケースを引き寄せた。蓋を開けると、中にはテーピングや包帯が整然と収められている。


 一本取り出し、蓮の前に座る。


「脚、出して」


 短く言う。

 蓮は言われた通りに右脚を少し前に出した。風呂上がりの熱がまだ残っていて、皮膚の奥に鈍い重さが居座っている。


 椿はそのまま、何も言わずに手を添えた。

 指先が、太ももの裏をなぞる。

 探るように、確かめるように。


 強く押すわけではない。ただ、わずかな硬さや張りを拾うように、ゆっくりと動く。

 蓮は動かない。


 触れられている場所が、正確すぎた。

 違和感の中心を外さない。


「……ここね」


 椿が小さく呟く。

 蓮は短く息を吐いた。


「……ああ」


 それだけで通じる。

 そのまま椿は視線を落としたまま、慎重に巻き始めた。

 引きすぎないように、緩すぎないように。


 固定ではなく、補助。

 動きを制限しない範囲で、負荷だけを逃がす。


 迷いがない。

 手順も、力の入れ方も、一定だった。


 蓮はその手元を見ていた。


「……慣れてるな」


 椿の手が、一瞬だけ止まる。


 すぐに動きを再開する。


「まぁ、ちょっとね」


 短いやり取り。

 それだけだった。


 椿はテーピングの端を整え、ケースに戻す。

 蓋を閉じる音が、小さく鳴る。


 椿は、立ち上がろうとして、ほんの一瞬だけ止まった。

 何か言いかけて、やめる。


 そのまま、何事もなかったようにキッチンへ戻る。

 蓮はその背中を見たまま、しばらく動かなかった。


 さっき触れられた感覚だけが、まだ残っている。

 痛みではない、別の何か。


 視線を落とす。

 ノートは、開いたまま。

 さっきまで埋まらなかったページが、少しだけ違って見えた。


 ペンを手に取る書き始める。

 今度は、止まらなかった。


 夕方の光が、リビングの床を長く伸びていく。


 その中で、二人はそれぞれの場所で手を動かしていた。

 距離は変わっていないはずなのに、さっきよりも少しだけ近かった。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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