53食目 泣きながらも
朝、目を覚ました瞬間に、蓮は右脚の存在を思い出した。
疼痛は昨夜よりもわずかに鈍い。だがそれは回復ではなく、損傷がそこに「居座っている」だけだった。太ももの裏に残る重い熱と硬さが、寝返り一つで神経を引きつらせる。
天井を見上げたまま、しばらく動かなかった。
昨夜の光景が、頭から離れない。
椿が泣いていた。
あれは仕事の失敗に対するものではない。もっと個人的で、もっと深いところから崩れたものだった。
――自分が壊した。その認識だけが、静かに残っている。
蓮は息を吐き、身体を起こした。
リビングへ向かうと、キッチンにはすでに椿が立っていた。
動きはいつも通りだった。食材を刻むリズムも、火加減の調整も、無駄がない。朝の光の中で見る横顔も、表面上は何も変わっていない。
だが、空気が違う。
「……おはよう、天根くん」
振り返らないままの声。
平静を保っているが、意図的に均された硬さがあった。
「……ああ、おはよう」
それだけで会話は途切れる。
テーブルに並んだ朝食は、完全に回復へ寄せられていた。消化負担を抑えながら、必要な栄養素だけを過不足なく摂取させる構成。昨夜のあとでも、この精度を崩していない。
蓮は箸を取る。
「食べて」
ようやく椿がこちらを見た。赤みは引いているが、まぶたのわずかな腫れと、感情を伏せた視線が残っている。
蓮は何も言わず、食事を口に運んだ。
味は変わらなかった。
余計なものが削ぎ落とされた中でも、食べる側への配慮だけは消えていない。
その気遣いが、かえって重い。
昨夜見たファイルの内容と、この一皿が、完全に繋がっている。
何か言うべきだと分かっている。
だが結局、二人の間にあるのは最低限のやり取りだけだった。
「薬は朝食後ね」
「分かってる」
「日中、水分はこまめにとって」
「……ああ」
椿はそれ以上何も言わず、鞄を手に取った。
「私、先に出るわ」
理由は言わない。
だが、それで十分だった。
「……いってらっしゃい」
「行ってきます」
扉が閉まる。
静かな音が、やけに長く残った。
蓮は空になった皿を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。
どう踏み込めばいいのかが、分からない。
サッカーなら、解は必ずある。
だがこれは、その延長線上にない。
学校へ向かう足取りも、どこか鈍かった。
昼休みの終わり、廊下に出たところで声がかかる。
「おーい、天根」
桐生だった。
視線は真っ先に脚へ落ち、状況を把握する。
「少し話せるか」
「はい」
校舎脇の通路へ移動する。
「どんな感じだ?」
「軽度の肉離れです。三週間前後で復帰予定と」
「三週間かぁ」
桐生は短く繰り返した。
「まあ、あの倒れ方でそれなら軽い方だな。
……焦ったんだろ?」
蓮は否定しない。
「……はい」
「だろうな。誠和戦のあと、分かりやすかったし」
桐生は壁に肩を預けたまま続ける。
「ああいう負け方すると、“足りなかったもん”が頭に残る。すぐ埋めたくなる。分かるよ」
蓮は黙って聞く。
「でもな」
そこで一度区切る。
「焦ってやっていい結果になったこと、俺は一回もねえ」
言い切った。
「負けた直後って、“今すぐ上げないと置いていかれる”って感覚になる。でも、そこで無理に積むと、大体どっかで崩れる」
蓮の視線がわずかに下がる。
「今回がそれだろ」
「……はい」
「お前のやろうとしたこと自体は間違ってない。足りなかった部分に向き合ってるのは分かる。
……初めてか?通用しなかった経験は」
蓮はすぐには答えず、ゆっくりと頷いた。
桐生はそれを見て、呆れたように息を漏らす。
「はぇー、これだから天才は。
でも、これでわかったろ?焦りのままやると精度落ちる。身体も持たない。結局、遠回りになる」
静かな口調だった。
「だから、焦るな」
短く、はっきりと言う。
「悔しいのはそのままでいい。でも、そのまま突っ走るな」
蓮は息を吐いた。
「……分かりました」
「ほんとか?」
「……今は、分かります」
桐生は少しだけ口角を上げた。
「ならいい。ちゃんと治して戻ってこい」
それだけ言って、その場を離れる。
残された蓮は、しばらく動かなかった。
『焦るな』
単純な言葉だが、今は妙に重かった。
放課後、病院を出ると、外の空気は冷えていた。
患部の説明は受けた。だが、頭の半分は別のことで埋まっている。
建物の外に、人影があった。
「……佐伯さん?」
佐伯陽菜は、腕を組んだまま立っていた。
「待ってた」
「なんでここに……?」
「いいから、来て」
有無を言わせない調子だった。
すぐ近くの人気の少ない場所まで連れていかれる。
「天根くんさ」
陽菜は真正面から言った。
「何やってんの?」
「……怪我、した」
「そういうことじゃない」
即座に切られる。
「なんで椿があんな顔してんのって聞いてんの」
蓮の動きが止まる。
「昨日、あの子から連絡きたの。あんたが怪我したって。
でさ、あの子、泣いてたのは知ってるんでしょ」
「……ああ」
「じゃあ、その後の話も知らないと駄目だよ」
陽菜は一度息を吐く。
「あの子さ、泣きながら『もう大丈夫』って言って話題切ったの」
間を置く。
「で、そのあと普通に、回復の話してきた。食事どうするか、栄養どうするかって」
蓮の視線が揺れる。
「声、全然戻ってなかったのにね」
淡々とした言葉だった。
「泣いてるのに止まらないの。あの子、自分のこと後回しにするから」
昨夜のファイルが頭に浮かぶ。
「で、今朝も普通にしてたでしょ」
図星だった。
蓮は何も言わずに聞きに徹していた。
「そういうとこ分かってて放置してるなら、結構最悪だよ」
言葉が刺さる。
「……分かってる」
「何が?」
陽菜の瞳が、蓮を逃がさない。
蓮ははっきり言った。
「俺が、怪我しただけで終わらないことをしたってことだ」
陽菜は数秒、蓮を見てから息を吐く。
「ならいい」
そう言って、少しだけトーンを落とした。
「椿、今も天根くんの回復のこと考えてると思うよ。あの子、止まんないから」
蓮の中で、昨夜の文字が重なる。
「ちゃんと見てあげて。あの子、自分のことは後回しにするから」
それだけ言って、陽菜は背を向けた。
「じゃ、帰る」
「……ああ」
「次また泣かせたら、もっときつく言うから。
……お大事に」
振り返らずに去っていく。
一人残された蓮は、動かなかった。
焦るな、と言われた。
椿が泣いていたと、改めて突きつけられた。
どちらも昨日の自分には届かなかった言葉だ。
だが今は違う。
この脚は、自分だけのものではない。
その認識が、ようやく現実として重みを持つ。
どう向き合えばいいかは、まだ分からない。
だが、もう無視はできない。
蓮はゆっくりと歩き出した。
右脚を庇いながら、一歩ずつ。
秋の空気は冷たく、思ったよりも深く肺に刺さった。
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