52食目 管理士の慟哭
夜の天根家。ダイニングを支配していたのは、かつてないほどに重く、刺すような静寂だった。
ダイニングテーブルの椅子に深く腰掛けた蓮は、右脚を予備の椅子に乗せて高く上げていた。太ももの裏には、患部を圧迫するための厚いパッドと、ガチガチに固められた氷嚢が巻かれている。ズキズキと心音に合わせて脈打つ鈍痛は、彼が犯した「過ち」の大きさを刻一刻と脳に刻み続けていた。
キッチンでは、椿が無言で立ち働いていた。
いつもなら、その日のメニューの栄養価や、練習強度に合わせた微調整について、立て板に水のごとく解説してくれるはずの彼女が、今日は一言も発しない。まな板を叩く音、水道から流れる水の音、それらすべてがいつもより鋭く、冷徹に響いた。
やがて、蓮の前に一つのトレイが置かれた。
そこにあるのは、脂気を排し、組織の修復に特化した食材が並ぶ一皿だった。鶏胸肉のポシェ、クタクタに煮込まれたブロッコリー、そして微かな生姜の香りが漂うスープ。彩りも栄養価も、彼女の誇りにかけて「完璧」な一膳だ。
「……食べなさい」
椿の声は、驚くほど低く、掠れていた。
蓮は箸を取ろうとしたが、その前に彼女の顔を見て、動きを止めた。
いつもは冷静な光を宿している彼女の瞳は真っ赤に充血し、長い睫毛が微かに震えている。唇は白くなるほど強く、自らを罰するように噛み締められていた。
「……橘さん、俺…」
「食べなさいって言ってるわ。今、あなたの右脚の中で、損傷した組織が必死に修復を試みている。それに必要なタンパク質、亜鉛、ビタミンCはすべて揃えた。一秒でも早く、細胞に届けなさい」
「分かってる。……だが、その前に一つ言わせてくれ」
蓮は、右脚の痛みを堪えながら椿を真っ直ぐに見据えた。
「悪かった。……あんたの忠告を無視して、勝手な真似をした。怪我をしたのは、全部俺の責任だ。あんたの管理に落ち度はなかった。だから――」
「落ち度がなかった? 本気でそんなこと、言ってるの?」
椿がゆっくりと顔を上げた。遮るもののないその瞳には、怒りよりも深い、自分自身への激しい嫌悪と絶望が渦巻いていた。
「あなたが隠れて朝練をしていることに気づけなかった。あなたの歩幅の数センチの狂いを、強制的に練習を止めさせてでも修正できなかった。……選手に『気のせいだ』なんて嘘を吐かせて、あんな無様な壊れ方をさせた。……これが私の落ち度じゃなくて、何だっていうのよ」
「それは違う。俺が隠していたんだ」
「隠し通させてしまった私の責任よ! 私は、あなたの管理士なのよ! 天根蓮という選手の細胞一つ一つまで把握して、最高の結果を出すためにここにいるの。……それなのに、怪我をさせた。……管理士失格よ。私は、あなたをサポートする資格なんて、最初からなかったんだわ」
椿は吐き捨てるように言うと、ダイニングテーブルに拳を叩きつけた。ガシャン、とカトラリーが跳ね、乾いた音が室内に響き渡る。
蓮の中で、別の種類の熱が膨れ上がった。
それは、自分自身への苛立ちであり、そして、何よりも大切にしている椿の「プロとしての誇り」が、自分自身の独善的な行動のせいで傷ついていることへの、耐え難い拒絶反応だった。
「ふざけるな」
蓮の低い声が、室内の重苦しい空気を震わせた。
「……何が管理士失格だ。なんで、あんたが責任を感じる必要がある? オーバーワークを選んだのは俺だ。早朝に家を抜け出したのも、違和感があるのにピッチに立ったのも、全部俺の意志だ。……あんたは完璧だった。昨日だって、今朝だって止めてくれただろ。それを振り切ったのは、俺なんだよ!」
「止めきれなかった私のせいだと言ってるの! 選手を納得させてコントロールできない管理士なんて、ただの自己満足だわ!」
「勝手なことを言うな! あんたの献立があったから、俺は今まで一度も動けなくなったことはなかった。……今回だって、あんたの言う通りに休んでいればこんなことにはならなかった。それを台無しにしたのは俺の『甘さ』だ! なんで、俺のミスをあんたが背負うんだよ!」
「背負うに決まってるでしょ!!」
椿の叫びが、狭いリビングに響き渡った。
「あなたが……、あなたが一歩走るたびに、どれだけの重みがかかっているか。その一歩のために、どれだけの想いで私がこの献立を考えてきたと思ってるの!? 私は……あなたの肉体が、私の一部みたいに大切だったのよ! それを……、あんなに必死に積み上げてきたものを……こんな形で失って……私が、平気だとでも思ったの!?」
椿の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
彼女は顔を覆い、その場に崩れ落ちる。
「……あなたの焦りは、分かってた。誠和戦の後のあなたが、どれだけ自分を追い詰めていたか、痛いほど分かってた。……だからこそ、私が守らなきゃいけなかったのに。……私が、私自身が……あなたが壊れるところなんて、見たくなかった……」
蓮は、絶句した。
彼女が泣いているのは、自分の仕事が失敗したからではない。
「管理」という言葉の鎧の下で、ひとりの少女として、天根蓮という人間が傷つくのを、ただ、死ぬほど怖がっていたのだ。
「……橘さん」
蓮は震える手を伸ばしたが、蹲る彼女の肩に触れることはできなかった。
「俺の責任だ」という言葉がいかに独りよがりで、彼女のこれまでの全ての時間を……彼女が蓮に寄せていた祈りに似た私情を、踏みにじるものだったかを、蓮はようやく理解した。
「……すまない。……本当に、すまない」
何度も繰り返してきた謝罪。だが、今の「すまない」は、これまでのどんな言葉よりも重く、魂を削るような後悔を孕んでいた。
椿は、しばらくの間、声を殺して震えていた。やがて乱暴に涙を拭うと、フラフラと立ち上がった。その目はまだ赤く、鼻筋も薄く染まっていたが、そこに宿る光は、先ほどよりも鋭く、より冷徹な輝きを帯びていた。
「……その食事、全部食べなさい。一滴も残さず、よ」
彼女は蓮の顔を見ず、背を向けてキッチンを後にした。
自分の部屋のドアが閉まる音が、この家の中で一番遠い音に聞こえた。
一人残されたダイニングで、蓮は味の薄い鶏胸肉を口に運んだ。
彼女がどんな想いで火加減を調節し、どれほどの執念でこの食材を選び抜いたのか。
噛みしめるたびに、筋肉を修復するための栄養素が、彼女の執念の重みを持って喉を通る。
深夜。
リビングで翌日のリハビリメニューを確認していた蓮は、テーブルの隅に置かれた椿のファイルを見つけた。
彼女が自室へ戻る際に忘れていったものだろう。表紙に「右ハムストリングス肉離れにおける最短復帰プロトコル」という、殴り書きされたようなラベルが貼ってあるのを見て、蓮は吸い寄せられるようにページを捲った。
そこにあったのは、凄まじい執念の跡だった。
最新のスポーツ医学論文のコピーや、海外選手にも適応されている栄養学の学術記事。
そして、余白にびっしりと書き込まれた、震えるような文字。
『……三時間おきの栄養摂取。睡眠の質の向上。グリコーゲン枯渇の防止。
私の管理不足。天根くんの焦りに気づけなかった。
彼の時間を止めたのは、私。絶対に、私が治す。一ヶ月なんて待たせない。二度と、あんな顔はさせない』
日付は、あの怪我をした直後。
何度も何度も書き直されたような跡と、掠れた文字。
彼女は、自分が責められ、泣いている間も、いや、それ以上に、蓮を「取り戻す」ための戦いを、独りで始めていたのだ。
蓮は、そのファイルの重みに、息が詰まるような感覚を覚えた。
自分は、この人間を二度と裏切ってはならない。
この脚は、もう自分のエゴだけで動かしていいものではない。
蓮は、静かにファイルを閉じ、目を閉じた。
窓の外では、冷たい秋の風が吹いていた。
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