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51食目 散らばった管理表

 十月の朝の空気は、肺の奥を刺すように冷たかった。

 街外れの町民グラウンドを後にする蓮の足取りは、はた目には普段と変わらないように見えたかもしれない。だが、本人だけは自覚していた。右太ももの裏側――ハムストリングスの深部に、薄い膜を一枚隔てたような、重く、鈍い熱が居座っていることを。


 一歩踏み出すごとに、筋肉の繊維がミリ単位で引き延ばされ、神経の先端を逆撫でするような微かな警告を送ってくる。

 今朝の朝練で感じた、あの「引っかかるような違和感」は、数時間の睡眠を経ても消えるどころか、より明確な「不穏な予兆」としてその輪郭を際立たせていた。


(……乳酸が溜まっているだけだ。あるいは、筋膜が一時的に癒着している。よくあることだ)


 蓮は自分に言い聞かせた。

 誠和戦で突きつけられた、あの構造的な敗北。自分のトラップがわずかボール半個分流れただけで、積み上げてきた全てが瓦解し、勝利が零れ落ちたあの屈辱。その記憶が、右脚の違和感を凌駕する焦燥となって蓮を突き動かしていた。


 ーー足りない

 技術でも判断でも越えられなかった壁を、蓮は肉体で越えようとしていた。

 それが、椿と積み上げてきた管理そのものを、自分の手で歪める行為だと分かっていても。


 校門をくぐり、渡り廊下を歩いていると、前方にスポーツ栄養科の校舎から出てきた椿の姿が見えた。

 彼女はいつものように、栄養素のデータや体調管理表が詰め込まれた分厚いファイルを抱えている。蓮の姿を認めた瞬間、彼女の眼鏡の奥の瞳が、一瞬にして鋭い観察者のそれへと変わった。


「……おはよう、天根くん」


 椿の声は静かだったが、その響きには隠しきれない緊張が混じっていた。

 蓮はあえて視線を逸らさず、短く挨拶を返す。だが、椿の視線は蓮の顔ではなく、その「歩様」に釘付けになっていた。


「……天根くん。右のストライドが、昨日よりわずかに狭いわ。接地する瞬間の、腰の逃げ方も。……何をしたの? 私は昨日、『追加はゼロだ』って言ったはずよ」


 図星だった。蓮の喉が、わずかに引き攣る。

 椿の一歩が、蓮のパーソナルスペースを侵食する。彼女から漂う、朝の調理実習で扱ったであろう微かなハーブの香りが、余計に蓮の罪悪感を逆撫でした。


「……気のせいだ。少し、昨日の練習の張りが残っているだけだよ。問題ない」


「嘘ね。あなたの身体が、そんな単純な管理ミスを起こすはずがないわ。……天根くん、お願いだから。今のあなたの筋肉の硬化度は、明らかに修復のキャパシティを超えている。今、高強度の負荷をかければ、繊維は耐えきれずに爆ぜるわよ」


 椿の手が、思わずといった風に、蓮の練習着の裾を掴みかけた。

 だが、彼女は寸前でその手を止めた。


 彼女はマネージャーではない。グラウンド内での選手の進退を決定する権限も、監督に意見を具申する立場も、公式には持ち合わせていない。


 彼女にできるのは、あくまで「栄養士」としての助言と、個人的な信頼関係に基づく制止だけだった。


「……俺は、上に行かなきゃいけないんだ。あの試合で届かなかった場所へ」


 蓮は、椿の瞳を真っ向から見据えた。そこには、彼女への軽蔑も拒絶もない。あるのは、自分自身を追い詰めるプロフェッショナルとしての、そして一人の少年としての、剥き出しの焦燥だった。


「橘さんの言うことは、いつだって正しい。それは分かってる。でも……今の俺には、休んでいる余裕なんてないんだ。……すまない」


 蓮は、椿の制止を静かに、けれど決定的に振り切った。

 背後に残された彼女がどんな表情をしているか、確認する勇気はなかった。右脚の違和感が、チリチリと燃えるような熱に変わっていくのを自覚しながら、蓮はただ前だけを見て歩いた。


 放課後。常盤台高校のグラウンド。

 選手権予選敗退の痛みを、新たなエネルギーに変えようとする熱気に、蓮の意識は飲まれていった。

 監督の指示が飛び、部員たちが一斉に散っていく。蓮は右脚の重さを隠すように、念入りにストレッチを行うふりをした。だが、どんなに時間をかけて伸ばしても、ハムストリングスの深部にある、あの硬い「しこり」のような感触は、消えるどころかより鮮明に存在を主張し始めていた。


 グラウンドのフェンス越し。

 校舎の渡り廊下の陰に、椿の姿があった。

 彼女はそこから動かず、ただ一人、蓮の動きを凝視している。

 それは彼女が自らに課した「境界線」だった。グラウンドという聖域に足を踏み入れることはせず、しかし、自分が心血を注いで作り上げた「最高傑作」が、自らの意志で壊れていく予兆を、ただ見守ることしかできない。そのもどかしさと絶望が、遠目にも伝わってきた。


「よし、紅白戦だ! 誠和戦を思い出せ。あの強度を基準にするぞ!」


 監督の声が、蓮の脳内のアドレナリンに火をつけた。

 ビブスをつけ、ピッチの中央へ向かう。対面には、レギュラー昇格を狙う二年生のディフェンダーが、飢えた獣のような目で蓮を睨んでいる。


 ホイッスルが鳴り、ボールが動き出す。

 蓮の周囲の解像度が跳ね上がる。右脚の痛みは、極限の集中状態によって一時的に麻痺していた。

 中盤でパスを引き出し、散らす。その動作一つ一つに、これまで以上の力強さを込めようとした。だが、脳が命じる「キレ」に対し、右脚の反応が、コンマ数秒、いや数ミリ秒だけ、確実に遅れている。


 そして、後半。

 蓮の足元に、あの日と同じような、重く鋭い縦パスが入った。

 背後には、二年生の巨漢ディフェンダーが、全体重を乗せるようなプレッシャーをかけてくる。

 あの日、トラップを流してしまった、あの因縁のシチュエーション。


(今だ。……ここ)


 蓮は、右脚を軸にして、強引に身体を入れ替えようとした。

 右足が芝を強く噛む。

 筋肉が、腱が、骨が。椿が精密に組み上げた「天根蓮」という肉体のパーツが、設計限界を超えたトルクを受け止めようとした、その瞬間だった。


 ――バチンッ!


 蓮の耳に、あるいは脳内に、生々しい「破断音」が響いた。

 太ももの中で、鋼鉄のワイヤーが弾け飛んだような衝撃。


「……っあ!?」


 直後、右太ももの裏側に、真っ赤に焼けた鉄の棒を突き立てられたような、凄まじい激痛が突き抜けた。

 目の前が白く染まる。

 力が、入らない。入るはずがない。

 肉体が、自らの意思を完全に遮断した。蓮の身体は、空中で制御を失った糸の切れた人形のように、無様に芝生の上へと叩きつけられた。


「……あ、が……っ、ぐう……っ!」


 声にならない叫びが漏れる。

 芝に顔を埋め、蓮は右脚を抱えて悶絶した。

 今まで経験したどんな打撲とも、捻挫とも違う。筋肉そのものが内部で爆発したような、取り返しのつかない破壊の感触。


「天根!? おい、どうした! 天根!」


 桐生が駆け寄り、周囲に部員たちが集まってくる。

「担架だ!」「誰かアイシングを!」という怒号が、どこか遠い世界の出来事のように聞こえる。

 激痛の波の中で、蓮は、無理やり首をもたげた。

 視線の先、フェンスの向こう側を、見ずにはいられなかった。


 渡り廊下の陰。

 椿が、立ち尽くしていた。

 彼女の手から滑り落ちたファイルが地面に散らばり、白い資料が風に舞っている。


 彼女は動かなかった。

 駆け寄ることも、心配そうに名前を呼ぶこともなかった。

 ただ、幽霊のような青白い顔で、壊れてしまった自分が守るはずだったものを。

 止めることができなかった自分を呪うように、石像のような沈黙で、ただ呆けたように見つめていた。


(……ごめん)


 蓮は心の中で、謝った。

 彼女の献身。彼女の論理性。彼女の情熱。

 その全てを、自分の傲慢で、最悪の形で裏切ってしまったことへの後悔。

 その重さが、肉体の激痛以上に、蓮の心臓を締め付けた。


 運ばれていく担架の上で、蓮は最後に椿の姿を見た。

 彼女は、散らばった資料を拾うこともせず、ただ、フェンスの網目に指を食い込ませ、崩れ落ちる寸前のような姿で、立ち尽くしていた。


 フェンスの向こうで、白い資料だけが風に舞っていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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