50食目 見つからない場所で
朝の空気は、思ったよりも冷えていた。
街の外れの町民グラウンド。グラウンドの端に設置された照明だけが、白いラインをぼんやりと浮かび上がらせていた。
その中で、蓮は一人、スタートラインに立つ。
深く息を吸って、吐く。
身体は、正直だった。
練習の疲労は残っている。脚の奥に鈍い重さがあり、完全に回復している状態ではない。
(……分かってる)
昨日、椿に止められたときのやり取りが頭をよぎる。
やりすぎだ、と。
回復が追いつかない、と。
どれも正しい。
理解もしている。
だから――今日はいつもと違う場所に来た。
見つからないように。バレないように。
負荷も抑えて、短い本数で切り上げる。
そのつもりで、ここに立っている。
足を一歩引き、構える。
そして―― 踏み出した。
最初の一本は、抑えた。
距離も短く、スピードも七割程度。フォームを確認するように走り、ラインで減速する。
呼吸も乱れない。
(このくらいなら問題ない)
もう一本。
同じ距離。同じ強度。
それを、繰り返す。
脚の動きは悪くない。地面の捉え方も、重心移動も、普段と変わらない。
だが――
(まだ、軽いな)
物足りなさが、先に来た。
この程度で、あの接触を上回れるのか。
あの距離感を崩せるのか。
答えは、分かっている。
もう一本、踏み出す。
今度は少しだけ距離を伸ばした。
スピードも上げる。
踏み込みが強くなる分、脚にかかる負荷も増える。
減速の瞬間、太ももに張りが走る。
(……まだいける)
呼吸が一段階上がる。
だが、問題ない。
もう一本。
同じ距離。同じ強度。
今度は切り返しを入れる。
急停止から方向転換、再加速。
軸足に負荷が乗る。
踏み込み、押し返す。
前へ。
(まだ、軽い)
感覚が、まだ足りない。
もっと、速く。
もっと、強く。
気づけば、本数は予定を超えていた。
止めるタイミングは、何度かあった。
「ここまでにするか」と思う瞬間は、確かにあった。
だが、そのたびに――
(これじゃ足りない)
その一言で、踏みとどまる。
次の一本へ、身体が動く。
ダッシュ。
減速。
ターン。
再加速。
単純な反復。
それを、ただ繰り返す。
呼吸は荒くなり、視界の端がわずかに揺れ始める。
脚の張りも、徐々に強くなる。
それでも、動ける。
だから、続ける。
インターバルを挟み、短く、呼吸を整える。
その間に、思考が入り込む。
あの場面。
強いパスと強い寄せ。
流れたトラップ。
奪われ、失点。
(……あれを収めていれば)
そこまで考えた瞬間、顔を上げる。
もう一度、スタート位置へ。
「ちょっと。もう止めにしなさい」
声がしたと感じた方向に目を向ける。
だが、そこには誰もいない。
(気のせいか。......いや、あと少しだけやってやめよう)
最後に、さらに強度を上げる。
距離を伸ばす。スピードを上げる。
負荷を、もう一段階引き上げる。
分かっている。
これ以上は、本来ならやらない領域だ。
疲労が抜けきっていない状態で積み上げれば、効率は落ちる。
怪我のリスクも上がる。
全部、理解している。
それでも――
(届かなかった)
その事実だけが、残る。
踏み込む。
強く。
速く。
地面を叩く音が、朝焼けに溶け込んでいく。
一本。
もう一本。
さらに一本。
脚が重くなってくるが、まだ動く。
まだ出せる。出せるうちは、やる。
それくらいやらないと、自分は弱い。
途中、何度かフォームが崩れる。
踏み込みが浅くなり、切り返しが鈍る。
そのたびに、止まって修正する。
呼吸を整える。
そして、もう一度。
同じ動作をなぞる。
精度を落としたまま終えることだけは、許せなかった。
(最低限は、保つ)
それが、最後のラインだった。
無茶はしない。
壊れる手前で止める。
そこだけは、守る。
だから――まだ大丈夫だと、判断する。
次の一本に入る。
踏み込む。
その瞬間、太ももの奥で、糸が一本引っかかったような鋭さが走った。
「……っ?」
小さく息が漏れる。
動きが一瞬止まる。
だが、すぐに体勢を戻す。
(今のは……)
張りが強くなっただけ。
そう判断する。
実際、走れるし力も入る。
致命的ではない。
数歩、軽く動く。
問題ない。
(……気のせいだ)
短く結論を出す。
本来なら、ここで切り上げるべきだと分かっている。
これ以上はリスクが高い。
椿に言われた通りだ。
だが――
(あと少し)
その「少し」が、引けない。
ここでやめれば、昨日と同じになる。
足りないまま終わる。
それだけは、選べなかった。
志岐に触れられた、あの半歩。
流れたトラップ。
押し込まれた失点。
あの記憶が、ここで止めることを許さない。
蓮はゆっくりとスタート位置に戻る。
呼吸を整える。
脚の違和感は、まだ残っている。
それでも――
踏み出した。
朝のグラウンドに、再び足音が響く。
その反復は、しばらく止まらなかった。
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