49食目 冷めない渇き
敗北の感触は、抜けなかった。
試合から数日が経っても、あの九十分はそのまま体の中に残っている。断片じゃない。流れとして、何度も繰り返し再生される。
照明に照らされたピッチの上で、蓮は一人、ボールを蹴っている。トラップ、ターン、キック。その一連の動作を、精度を確かめるように繰り返していた。
動き自体に乱れはない。むしろ、集中している分だけ研ぎ澄まされている感覚すらある。
それでも、納得はしていなかった。
あの試合の感触が、頭から離れない。
受ける前に消されたコース。触れられなかった時間。関与できないまま進んでいく試合。そして――自分の選択で失点した、あの一瞬。
(あれは通せた)
判断自体は間違っていない。強いボールを要求したのも、あの状況では合理的だった。
だが、成立しなかった。
“いつも通り”の精度が、接触の中でわずかに崩れた。それだけで、試合は傾いた。
ボールを止める。
呼吸は少し上がっているが、まだ余裕はある。
(足りないのは、フィジカル)
当たられても精度を落とさないための強さ。
技術や判断で上回るだけでは足りない。受ける前の段階から競り勝つための土台が、まだ足りていない。
蓮はボールを蹴り出し、そのまま短いダッシュを入れた。切り返しを織り交ぜながら、何本も繰り返す。脚に負荷が溜まっていくのを感じるが、意識的に無視する。
止める理由が見当たらない。
「……何やってんの」
背後から声が飛んだ。
蓮は動きを止め、ゆっくり振り返る。
「見ての通り、自主トレだよ」
短く答える。
椿は数歩分の距離を保ったまま、こちらを見ていた。手にはボトルとタオル。だが、その視線はいつもよりずっと厳しい。
「今日の練習の後ずっとやってるわよね」
「そうだな」
「どれくらい追加でやってるか分かってる?」
「大体は」
曖昧に返すと、椿の眉が寄る。
「大体って何?今の状態、明らかにオーバーしてる」
椿はそう言いながら、一歩近づく。
「今日のメニューだけで十分負荷はかかってるわ。そこにそれだけ上乗せしたら、回復が追いつかなくなるじゃない」
蓮は少しだけ視線を逸らした。
「……足りてない」
「何が?」
「接触の中での精度。あの試合、そこが原因で崩れた」
淡々とした口調だったが、言葉の奥には明確な熱があった。
「だから、そこを上げなきゃいけないんだ」
椿はすぐに首を振る。
「気持ちは分かる。でもやり方が違うわ」
はっきりと言い切る。
「今それをやっても、上がる前に落ちる。疲労が抜けない状態で続けたら、パフォーマンスは下がるし、怪我のリスクも上がる」
言葉に迷いはない。
「少なくとも、今日はやりすぎよ」
蓮は数秒だけ黙った。
視線は地面に落ちている。
言っていることは理解できる。感覚的にも、完全に間違っているとは思っていない。
だが――
(それでも、足りない)
内側の感覚が、それを否定する。
椿はその沈黙を見て、少しだけ声を落とした。
「私は、サッカーのことはわかんないけど……
天根くんが焦ってるのは分かる」
静かな声だった。
「でも、それで崩したら意味ない。積み上げてきたもの、全部無駄にするよ」
蓮はゆっくりと息を吐いた。
視線を上げる。
「……どこまでならいい」
短く聞く。
椿が一瞬だけ目を見開く。
「今日はここで終わり。追加はなし」
「ゼロか」
「ゼロよ」
即答だった。
「回復もトレーニングの一部だから」
蓮は数秒だけ考えた。
そのままボールを拾い上げる。
そして――
「……分かった」
小さく、そう言った。
その一言に、椿の表情がわずかに緩む。
「水分だけ取って。あとでちゃんと食事も――」
「分かってるよ」
被せるように返す。
いつも通りのやり取りだった。
蓮はボトルを受け取り、一口だけ飲む。喉を通る冷たさが、ようやく身体の熱を自覚させた。
そのままタオルで首元を拭く。
動きは止まった。
言われた通りに。
だが、頭の奥に残っている感触は、まったく消えていなかった。
あの一瞬。
トラップが流れた、あの半歩。
あれさえなければ、試合は変わっていた。
(次は、外さない)
思考だけが、静かに続いている。
椿はそれ以上何も言わず、隣に立ったまま様子を見ていた。止めたことに対する安堵と、それでも消えきらない不安が、同時に残っているようだった。
蓮はボトルを返し、軽く肩を回す。
「先、戻る」
「うん」
短い返事。
それだけのやり取りで、蓮は歩き出した。
グラウンドを出る直前、一度だけ振り返る。
静まり返ったピッチ。
さっきまで自分がいた場所。
数秒だけ見て、視線を切る。
そのまま何事もなかったかのように歩き出す。
止まったはずのトレーニングは、確かに終わっている。
だが――
蓮の中では、まだ何も終わっていなかった。
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