表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
50/94

49食目 冷めない渇き

 敗北の感触は、抜けなかった。

 試合から数日が経っても、あの九十分はそのまま体の中に残っている。断片じゃない。流れとして、何度も繰り返し再生される。


 照明に照らされたピッチの上で、蓮は一人、ボールを蹴っている。トラップ、ターン、キック。その一連の動作を、精度を確かめるように繰り返していた。


 動き自体に乱れはない。むしろ、集中している分だけ研ぎ澄まされている感覚すらある。

 それでも、納得はしていなかった。


 あの試合の感触が、頭から離れない。

 受ける前に消されたコース。触れられなかった時間。関与できないまま進んでいく試合。そして――自分の選択で失点した、あの一瞬。


(あれは通せた)


 判断自体は間違っていない。強いボールを要求したのも、あの状況では合理的だった。


 だが、成立しなかった。

 “いつも通り”の精度が、接触の中でわずかに崩れた。それだけで、試合は傾いた。


 ボールを止める。

 呼吸は少し上がっているが、まだ余裕はある。


(足りないのは、フィジカル)


 当たられても精度を落とさないための強さ。

 技術や判断で上回るだけでは足りない。受ける前の段階から競り勝つための土台が、まだ足りていない。


 蓮はボールを蹴り出し、そのまま短いダッシュを入れた。切り返しを織り交ぜながら、何本も繰り返す。脚に負荷が溜まっていくのを感じるが、意識的に無視する。

 止める理由が見当たらない。


「……何やってんの」


 背後から声が飛んだ。


 蓮は動きを止め、ゆっくり振り返る。


「見ての通り、自主トレだよ」


 短く答える。

 椿は数歩分の距離を保ったまま、こちらを見ていた。手にはボトルとタオル。だが、その視線はいつもよりずっと厳しい。


「今日の練習の後ずっとやってるわよね」


「そうだな」


「どれくらい追加でやってるか分かってる?」


「大体は」


 曖昧に返すと、椿の眉が寄る。


「大体って何?今の状態、明らかにオーバーしてる」


 椿はそう言いながら、一歩近づく。


「今日のメニューだけで十分負荷はかかってるわ。そこにそれだけ上乗せしたら、回復が追いつかなくなるじゃない」


 蓮は少しだけ視線を逸らした。


「……足りてない」


「何が?」


「接触の中での精度。あの試合、そこが原因で崩れた」


 淡々とした口調だったが、言葉の奥には明確な熱があった。


「だから、そこを上げなきゃいけないんだ」


 椿はすぐに首を振る。


「気持ちは分かる。でもやり方が違うわ」


 はっきりと言い切る。


「今それをやっても、上がる前に落ちる。疲労が抜けない状態で続けたら、パフォーマンスは下がるし、怪我のリスクも上がる」


 言葉に迷いはない。


「少なくとも、今日はやりすぎよ」


 蓮は数秒だけ黙った。

 視線は地面に落ちている。

 言っていることは理解できる。感覚的にも、完全に間違っているとは思っていない。


 だが――


(それでも、足りない)


 内側の感覚が、それを否定する。

 椿はその沈黙を見て、少しだけ声を落とした。


「私は、サッカーのことはわかんないけど……

 天根くんが焦ってるのは分かる」


 静かな声だった。


「でも、それで崩したら意味ない。積み上げてきたもの、全部無駄にするよ」


 蓮はゆっくりと息を吐いた。

 視線を上げる。


「……どこまでならいい」


 短く聞く。

 椿が一瞬だけ目を見開く。


「今日はここで終わり。追加はなし」


「ゼロか」


「ゼロよ」


 即答だった。


「回復もトレーニングの一部だから」


 蓮は数秒だけ考えた。

 そのままボールを拾い上げる。


 そして――


「……分かった」


 小さく、そう言った。

 その一言に、椿の表情がわずかに緩む。


「水分だけ取って。あとでちゃんと食事も――」


「分かってるよ」


 被せるように返す。

 いつも通りのやり取りだった。


 蓮はボトルを受け取り、一口だけ飲む。喉を通る冷たさが、ようやく身体の熱を自覚させた。

 そのままタオルで首元を拭く。


 動きは止まった。

 言われた通りに。


 だが、頭の奥に残っている感触は、まったく消えていなかった。


 あの一瞬。

 トラップが流れた、あの半歩。

 あれさえなければ、試合は変わっていた。


(次は、外さない)


 思考だけが、静かに続いている。

 椿はそれ以上何も言わず、隣に立ったまま様子を見ていた。止めたことに対する安堵と、それでも消えきらない不安が、同時に残っているようだった。


 蓮はボトルを返し、軽く肩を回す。


「先、戻る」


「うん」


 短い返事。

 それだけのやり取りで、蓮は歩き出した。


 グラウンドを出る直前、一度だけ振り返る。

 静まり返ったピッチ。

 さっきまで自分がいた場所。


 数秒だけ見て、視線を切る。

 そのまま何事もなかったかのように歩き出す。


 止まったはずのトレーニングは、確かに終わっている。


 だが――

 蓮の中では、まだ何も終わっていなかった。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


「おもしろい」「続きが気になる」と思っていただけたら、ぜひ下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援をお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
どんだけ上手かろうが凄かろうか怪我したらおしまいなのに気づかないのが不思議
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ