43食目 世界で最も
九月下旬。常盤台高校を覆う空気は、安っぽいソースの焦げる匂いと、行き場のない熱狂に塗り潰されていた。模擬店の呼び込み、遠くで響く軽音楽部のドラム、アスファルトを叩く無数の足音。
蓮はそれらすべてを鼓膜の表面で弾き飛ばしながら、一人、専門科棟へと続く連絡通路を渡る。
渡り廊下を一歩越えるごとに、喧騒が遠のき、空気がひんやりと研ぎ澄まされていく。白一色の廊下に並ぶ研究ポスターの数々。
蓮はその前を、止まることなく歩き抜けた。
ふと視界の端に、一年生のものらしき展示が映る。高校生に必要な一日の摂取カロリー。理想的なタンパク質の配合。どこかの教科書を書き写したような、緩い言葉の羅列だ。
蓮はそれを一瞥し、わずかに口角を下げた。
自分がいま口にしているのは、そんな「平均」ではない。ミリグラム単位で計算され、その日の走行距離に合わせて微調整された、血肉そのものだ。
他のブースに並ぶ、一般論をなぞっただけのデータの数々。それらを見れば見るほど、自分が日常として座っている食卓が、どれほど浮世離れした聖域であるかが浮き彫りになる。
廊下の最奥、人だかりが壁のように実習室を塞いでいた。スーツ姿の大人たちが、眉間に皺を寄せ、一枚の巨大なパネルを凝視している。
蓮はその隙間に体を滑り込ませた。
視界に飛び込んできたのは、無機質な数字の軍勢だった。特定の個人の肉体を、半年間にわたって徹底的に解剖し、再構築し続けた記録。
体重推移のグラフは、一分の狂いもなく右肩上がりの理想曲線を描いている。トレーニング後の心拍数の戻りは、一般的なアスリートの基準を遥かに下回る時間で沈静化している。
それらは、帰国後の夏合宿から今日に至るまで、椿がグラウンドの隅でストップウォッチを手に、冷徹なまでに記録し続けてきた事実の集積だった。
「――このフェーズにおける筋合成の効率は、計算上、限界値の九十八パーセントに達しています」
人混みを割るように響いたのは、凛とした、けれど一切の温度を持たない声だった。
教卓の前に、白衣を纏った椿が立っている。眼鏡の奥にある瞳は、データという戦場に身を置く指揮官のそれだ。彼女の手にした指示棒が、パネルに示されたある一点を鋭く指し示す。
それは、先日の練習試合で見せた、蓮の九十分間にわたるスプリント強度の持続記録だった。
椿が、ゆっくりと顔を上げた。並み居る大人たちや、感嘆の声を漏らす生徒たちを通り越し、その視線が真っ直ぐに蓮を射抜く。
刹那、彼女の頬に、微かな、本当に微かな赤みが差した。管理栄養士と検体。その枠組みが、一瞬だけ、年相応の少年の目線によって崩れる。
「……来てくれたのね」
声は小さかった。けれど、静まり返った実習室において、その言葉は波紋のように広がった。
蓮は一歩、椿の方へと歩み寄る。
「ああ。これを作っていたんだな」
「ええ。あなたという事実を、形にしただけよ」
短いやり取りだった。だが、それだけで十分だった。
室内の空気が、物理的な重さを伴って変質する。それまで高度な研究発表として展示を見ていた野次馬たちが、一斉に蓮と椿を交互に見やり、顔を寄せ合った。
「え、なに今の感じ……」
「あの天根君だよね? 橘さんと、知り合いなの?」
「っていうか、今の喋り方……絶対ただの知り合いじゃないでしょ」
ひそひそとした囁きが、実習室の四隅から湧き上がってくる。サッカー部の絶対的な司令塔と、栄養科の孤高の首席。接点などないはずの二人の間に流れる、重く、濃密な信頼の気配。
それが恋仲という、学生たちにとって最も分かりやすく刺激的な言葉に置き換わり、好奇心に火がつくまで、時間はかからなかった。
蓮は背後に渦巻く視線を無視し、もう一度だけ、椿の作ったパネルを見上げた。
自分がピッチでボールを蹴る。その一蹴りの裏には、このパネルに記された狂気的なまでの計算が潜んでいる。
他人にどう見られようと、構わなかった。この展示こそが、彼女から自分への、あるいは自分から彼女への、最高にプロフェッショナルな回答だったからだ。
「……じゃあ、俺は行く。部活があるから」
「ええ。予選、期待しているわ。私の理論が正しいことを、証明してきて」
椿は再び眼鏡を押し上げ、プロの顔に戻った。
蓮が実習室を出ようとした瞬間、入口付近にいた女子生徒たちが、慌てたように道を開ける。背中に突き刺さるような、嫉妬と羨望。それらは、祭りの喧騒よりもずっと鋭く、二人の関係を校内へと運び去っていった。
実習室を出た廊下で、蓮は深く息を吐いた。肺に満ちる空気は、先ほどよりもずっと熱を帯びているように感じられた。
選手権予選まで、あと二週間。証明すべきものは、もう、自分だけの勝利ではなかった。
蓮はそのまま、騒がしいスポーツ科棟には戻らず、静まり返った部室棟へと向かった。コンクリートの壁に反射する自分の足音だけが、耳に心地よく響く。
先ほどの実習室で目にした、あの緻密なグラフ。椿が白衣のポケットに手を入れ、凛とした立ち姿で語っていた言葉。それらが頭の中で何度も再生される。
自分がピッチで全速力で駆け抜けるとき、肺が焼けるような熱さを感じるとき、あるいは試合終盤に足が止まりそうになるとき。
そのすべての瞬間に、彼女が机に向かって数値を弾き出し、食材を選び抜き、完璧な一皿を仕上げるための思考が介在している。
自分は一人でボールを蹴っているのではない。椿という名のエンジニアによって最適化された、究極のマシンとしてそこに立っているのだ。
部室に入り、ロッカーを開ける。
蓮はそのまま椅子に座り、目を閉じる。
瞼の裏には、先ほどの実習室のざわめきが残っていた。アマネが、タチバナと。
その根拠のない、けれど本質を突いた噂話が、明日から自分たちの周りをどう変えていくのか、容易に想像がついた。
だが、恐怖も嫌悪もなかった。むしろ、その噂さえも自分のパフォーマンスを加速させるための燃料にできるという、確固たる自信があった。
彼女が自分を証明するためにすべてを懸けているのなら、自分もまた、ピッチの上で彼女を証明し続けなければならない。
それは言葉で交わす約束よりも、ずっと重かった。
結果で結ばれた契約だからこそ、揺らぎようがない。
窓の外では、夕闇が静かに校庭を飲み込もうとしていた。遠くで鳴り響く文化祭の最後を告げるアナウンスが、祭りの終わりを告げている。
だが、蓮にとっては、これが本当の始まりだった。
選手権という舞台で、この半年間のすべてを、一滴の無駄もなく使い切る。その覚悟が、蓮の背筋を冷たく、そして熱く貫いた。
部室を出ると、廊下はすでに薄暗くなっていた。
一歩、また一歩と、自分を最高の状態に保つための時間を刻む。
選手権予選、一回戦まで。残された時間は、彼女との「共犯」を完成させるための、最後の準備期間だ。
蓮は、専門科棟の方角を一度だけ振り返った。そこにはまだ、研究に、あるいは後片付けに没頭しているであろう、一人の怪物の気配が残っていた。
「待っていろ」
声には出さず、心の中でそう呟く。
「お前の理論が、世界で最も美しい正解であることを、俺がピッチに刻みつけてやる」
足音は、先ほどよりも力強く、迷いなく夜へと溶け込んでいった。
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