41食目 夏休み明け
九月。猛暑の余韻を引きずったまま、常盤台の校内には二学期の喧騒が戻っていた。
スポーツ専攻が占拠するグラウンド側の熱気と、専門科であるスポーツ栄養科の校舎が放つどこか冷徹な静謐。その境界線を跨ぎ、蓮はドイツの地で交わしたあの生涯という言葉の重みを抱えたまま、学生としての日常へと戻ってきた。
登校中、廊下ですれ違う女子生徒たちの視線が、一学期よりも明らかに熱を帯びていることに気づく。ドイツ遠征での評価や、世界的なクラブからの関心の噂は、尾鰭がついて校内を駆け巡っていた。
黄色い歓声と、隠しきれない好奇の視線。それらは蓮にとって日常の一部ではあったが、今の彼にはそれらがひどく遠い世界の出来事のように感じられた。網膜に映る情報の解像度が、周囲とは決定的に異なっている。
ふと視線の先、スポーツ栄養科の校舎へと続く渡り廊下を歩く椿の背中が見えた。分厚い参考書を抱え、少しだけ猫背気味に歩く姿。家で見せるあの絶対的な管理士としての顔とは裏腹に、そこには目立たない一人の女子生徒としての彼女がいた。
昨日、不意に遭遇した桐生に見せた、あの狼狽した表情。普段の冷静さを欠いて赤面していた彼女の姿が、不意に脳裏を掠める。
「よお、天根。昨日はお疲れさん。……その後、ちゃんとリフレッシュできたか?」
背後から不意に肩を組まれ、蓮はわずかに身体を硬くさせた。振り返ると、そこには不敵な笑みを浮かべた桐生が立っていた。
「桐生先輩。おはようございます」
「おはよう。なんだよ、昨日のあの慌てよう。……まあ、お前があそこまで付きっきりで面倒見てもらえてるのは、正直羨ましい限りだぜ。俺たち寮生が食ってる計算済みのメシも悪かねえが、今のお前のその身体のキレは、一人暮らしが適当にやって辿り着けるレベルをとうに超えてる。あいつ、お前の隣に住んでるのをいいことに、相当な執念をお前の肉体に注ぎ込んでるだろ」
桐生はそれ以上深くは踏み込まず、蓮の肩を軽く叩いた。
「お前は本当に恵まれてるって自覚しろよ?橘はお前とは別種の怪物だ。あんな奴に心底見込まれて、四六時中、お前のためだけに最適化されたコンディションを整えてもらえるんだからな。
……あ、そうだ。今日から文化祭の準備期間だろ。あいつら専門科は、自分たちの学習成果をポスターにして展示するらしい。せっかくだし、一度あっちの棟を覗きに行ってやれよ。あいつがどれだけすごいのか、自分の目で確かめてくるといい」
桐生は手を振りながら去っていった。
ホームルームが始まっても、教室内を漂う浮足立った空気は蓮の意識を通り過ぎていった。
黒板には文化祭実行委員の文字が踊り、クラスメイトたちが模擬店の相談を始めている。スポーツ専攻のクラスは、基本的に招待試合やイベントに駆り出されることが多い。一方、専門科である椿のクラスは、例年研究発表や実習成果を出すのが通例だ。
家ではこれ以上なく近い距離にいるはずの二人が、学校という公の場では、所属する学科という壁によって明確に分断されている。あの中に、自分を最高傑作に仕上げようとしている一人の学生がいる。
午前中の授業中、廊下を通る他クラスの生徒が、蓮の席を覗き込んで小声で騒いでいるのが聞こえた。ドイツでの契約の噂。それは、高校生という枠組みを優に超えた、一人のアスリートとしての価値。
けれど、その価値を担保しているのは、他でもない隣室に住む少女だ。
ノートの端に無意識に書き連ねていたのは、昨日椿が選んだ新しい鍋のブランド名や、夕食に出された食材のリスト。自分がどれほど彼女に生かされているのかを、学校という社会的な空間が改めて認識させる。
二人の間に流れる時間は、単なる助け合いといった長閑なものではなかった。それは他者が介入する隙のない、極めて濃密で献身的な関係の形。
昼休み。鞄から取り出したのは、椿から手渡された専用の弁当箱だ。
色彩豊かに詰められた食材。その一つ一つに、午後からの練習メニューを考慮した栄養配分がなされている。
周囲の部員たちは、蓮が一人暮らしでこれほど完璧な栄養管理を自力で完結させているのだと思い込んでいる。そのストイックさへの敬意が、彼らとの間にある種の壁を作っていた。自分たちのように購買のパンで腹を満たす妥協を一切許さない、プロの肉体。
鶏胸肉のコンフィを口に運ぶ。素材の味を活かした絶妙な塩加減。それがただの弁当ではなく、自分の細胞を修復し、筋肉を強化するための精密な処方箋であることを、今の蓮は知っている。
「天根、お前今日もそれか。よく飽きねえよな。俺なんか三日で嫌になりそうだわ」
同じサッカー部の部員が、タマゴサンドを頬張りながら呆れたように笑いかけてくる。
「慣れればどうってことない。……体を作るのも仕事のうちだからな」
蓮は短く答え、最後の温野菜を口にした。
放課後。グラウンドにはいつも以上に活気が溢れていた。
文化祭の準備で練習時間が削られる分、メニューの密度は濃い。蓮はボールを蹴りながら、自分の体が驚くほど軽く、イメージ通りに動くことを確認する。
昨日あれほど歩き回り、今朝も多くの視線に晒されて神経を削ったというのに、筋肉の張りは微塵も感じられない。
ピッチの端では、マネージャーたちがテキパキとドリンクやタオルの用意をしている。
彼女たちの献身的なサポートに感謝しつつも、蓮の意識は自然と、ここにはいないもう一人の少女へと向く。彼女は今、あちら側の世界、スポーツ栄養科の校舎で自分たちの学習と研究に没頭しているはずだ。
練習を終え、アイシングをしながら見上げた空は、少しずつ秋の気配を帯びていた。
選手権予選まで、あとわずか。
文化祭という日常の最後の祭典を挟んで、自分たちは本当の戦場へと向かうことになる。
そして、帰宅後。隣室から漂ってくるのは、いつもの出汁の匂い。
蓮はカバンを置き、深呼吸をした。
明日からの文化祭準備期間。桐生に言われた通り、一度あっち側の世界を見てみる必要があるのかもしれない。
自分が信じていた普通が、どれほど特別なものであったのかを確認するために。
隣から聞こえる規則正しい包丁の音に耳を澄ませながら、蓮は静かにまぶたを閉じた。
期待と、わずかな緊張。
蓮が彼女の真価を知ることは、二人の関係に新たな、そして不可逆な変化をもたらす予感がしていた。
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