40食目 初デートと日常
スポーツ用品店での喧騒を背に、二人はエスカレーターでキッチン用品フロアへと降り立った。
そこは、これまでのフロアとは一変して、磨き上げられたステンレスの光沢と、落ち着いた照明に照らされた調理器具が整然と並ぶ空間だった。フロアに一歩足を踏み入れた瞬間、それまで桐生のからかいに動揺し、所在なさげに蓮の後ろを歩いていた椿の背筋が、劇的に伸びた。
「……! 天根くん、あっちを見て」
椿の瞳が、これまでに見たことがないほど爛々と輝いた。彼女が迷いのない足取りで駆け寄ったのは、プロ仕様の鋳物ホーロー鍋や、職人の手による特殊加工が施されたフライパンが並ぶコーナーだ。
先ほどスパイクやポスターを一瞥もしなかった姿が嘘のように、彼女は一つ一つの鍋を手に取り、蓋の密閉性を指先で確かめ、光の反射で表面の加工ムラをチェックしていく。
「見て、このフラットな底面。熱源からの伝導効率が完璧だわ。これなら根菜のビタミンを壊さずに短時間で芯まで火が通る……。それにこっちのフライパン、窒化処理の仕上がりが理想的ね。これなら油の使用量を最小限に抑えつつ、タンパク質を焦げ付かせずにソテーできるわ。見て天根くん、この美しいエッジの処理を!」
彼女の口から飛び出すのは相変わらず冷徹なまでの栄養学的、あるいは物理的な分析だったが、その声は心なしか弾んでおり、頬は高揚で赤らんでいた。蓮は、次々と専門用語を並べ立てながら棚から棚へはしごする椿の背中を、苦笑いしながら追いかける。
サッカーに関しては門外漢の彼女にとって、こここそがある意味で主戦場なのだ。彼女がフライパンを掲げて熱心に覗き込む姿は、まるで手に入れたばかりの至宝を鑑定する専門家のように真剣で、それでいてどこか微笑ましい。
「……橘さん、それ。さっきから五分くらい見てるけど、そんなに違うのか?」
「何を見ているの。道具は管理の基盤よ。熱の入り方が一秒狂えば、あなたの筋肉に届くアミノ酸の質が変わるかもしれないのよ。妥協なんて許されないわ」
椿は至って真面目な顔で、一枚のステンレス多層鍋を愛おしげに撫でた。蓮は、自分の食卓を支える道具をこれほど真剣に選ぶ彼女の横顔を、不思議といつまでも眺めていられるような気がしていた。
厳選に厳選を重ねた調理器具を購入し、二人は最後に商業施設内のスーパーマーケットへと向かった。
「今日の晩御飯、何にするんだ?」
蓮がカートを押しながら尋ねると、椿は野菜売り場の奥へと迷わず進んでいった。
「新しい鍋の熱伝導を確認するために、根菜の煮込みを作るわ。それと、高タンパク低脂質な白身魚のソテーね。……天根くん、そこのブロッコリー。蕾が固く詰まっていて、色が濃いものを選んでちょうだい」
スーパーという、生活感の溢れる空間。そこに、ハーフアップに整えた髪を揺らし、私服を纏った椿が立っている。その光景は、いつものジャージ姿でピッチを睨む彼女よりも、蓮の胸に強く迫るものがあった。
二人は並んで野菜の鮮度を吟味し、栄養バランスを小声で議論しながら、肉や魚を選んでいく。周囲からは、買い出しに来たごくありふれた二人組<<カップル>>に見えているかもしれない。その事実に、蓮は帽子のツバを少しだけ下げ、隠しきれない照れ臭さをやり過ごした。
レジで会計を済ませると、蓮の手にはずっしりと重い調理器具の袋が、椿の手には新鮮な食材が詰まった袋が握られていた。
ショッピングモールを出ると、空は深い橙色に染まり、夕暮れの風が二人の火照った肌を撫でた。駅へ向かう道すがら、袋がぶつかり合って立てる音が、二人の歩調を静かに整えていた。
やがて、二人は自分たちが住むマンションのフロアにたどり着いた。廊下に並んだ二つのドア。休日という特別な時間が、境界線を前にして急速に日常へと引き戻されていく。
「……じゃあ、一度荷物を置いてくるわ。着替えたらすぐに行くから、天根くんは先に道具の梱包を解いておいて」
「ああ、わかった。……じゃあ、後でな」
短いやり取りを交わし、二人はそれぞれの鍵で、隣り合ったドアを開けた。
自室に入り、蓮はまず大きな溜息をついた。今日一日の出来事が頭の中を駆け巡る。書店でのあの沈黙、桐生との遭遇、そして何より、キッチン用品を前にして輝いていた椿の瞳。
蓮は買ってきた鍋の箱をリビングに置き、動きやすいTシャツとスウェットに着替えた。顔を洗い、鏡の前でキャップを脱ぐ。乱れた髪をかき上げると、ようやくいつもの天根蓮に戻った気がした。
それから数分後、チャイムが鳴った。
ドアを開けると、そこには先ほどまでの装いを脱ぎ捨てた椿が立っていた。
髪は後ろで無造作に束ねられ、服装はいつもの、見慣れたラフなパーカー姿。手には食材の入った袋が握られている。その姿を見て、蓮は不思議な安堵感を覚えた。私服の彼女も魅力的だったが、この管理栄養士としての彼女が、やはり今の自分たちには一番しっくりくる。
「お待たせ。……さあ、始めるわよ。まずは鍋を洗うとこからね」
椿は蓮の部屋のキッチンへ迷いなく足を踏み入れた。その動作には一点の迷いもなく、ただ目の前の管理という職務に忠実な、彼女本来の熱が宿っている。
休日のお出かけは、これで終わり。
けれど、新しい道具が奏でる調理の音と、キッチンから漂い始める香りは、今日という日が確かに二人の距離を変えたのだと、静かに物語っていた。
「……橘さん。今日は、その……本当にありがとな」
「……私こそ、とても充実した一日だったわ。ありがとう。
……ほら、ブロッコリーを小房に分けて。時間が押しているわ」
椿は背中を向けたまま、トントンと軽やかな音を立てて野菜を刻み始めた。
夕日に照らされたキッチンで、二人の新しい日常が動き出す。それは、どんな豪華なディナーよりも贅沢で、どんな試合の勝利よりも確かな、二人の歩みだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
「おもしろい」「続きが気になる」と思っていただけたら、ぜひ下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援をお願いします!




