38食目 初デートと受難
大型商業施設の自動ドアが開いた瞬間、人工的な冷気が、夏の湿気を帯びた二人の肌を優しく撫でた。
夏休み最後の一日。連日の練習で火照った身体に、Tシャツ一枚では少し肌寒く感じるほどの冷房は、かえってここが戦いの場であるグラウンドではないことを、蓮に強く意識させた。
蓮は、慣れない私服の裾を何度も無意識に整えた。黒のシンプルなスキニーに、少しオーバーサイズの白シャツ。ドイツにいた頃にチームメイトから「少しは格好をつけろ」と無理やり買わされたものだが、鏡の中の自分は、まるで借りてきた衣装を着ているような居心地の悪さを感じさせる。
だが、その焦燥感の正体は、服のせいだけではない。
「……天根くん。そんなところで立ち止まっていないで、行きましょう。まずは四階の大型書店よ」
隣を歩く椿の声に、蓮は我に返った。
今日の彼女は、学校で見せる隙のない制服姿とは違っていた。柔らかなベージュのブラウスは、動くたびに彼女の細い輪郭を優しく縁取り、いつもはタイトに結ばれている黒髪が、今日はハーフアップにまとめられて、首筋の白さを際立たせている。
「……ああ、悪い。橘さん、その、今日の服……似合ってるな」
蓮が勇気を振り絞って口にした言葉は、喧騒の中に溶けてしまいそうなほど小さかった。
椿は一瞬、歩みを止めた。視線は案内図に向けたままで、横顔からは感情が読み取れない。だが、彼女が持っていたトートバッグの持ち手をぎゅっと握り直したのを、蓮は見逃さなかった。
「……ありがと。その、天根くんも似合ってるわ」
早口で言い捨てて歩き出す彼女の耳は、やはり髪の隙間から覗く先が、ほんのりと色づいていた。
四階の書店は、天井まで届くような本棚が迷路のように連なっていた。
専門書コーナーに入ると、椿の歩調はさらに速くなる。彼女は栄養学の棚の前に立つと、真剣な眼差しで背表紙を指でなぞり始めた。
「これ、以前から気になっていた臨床栄養学の最新号だわ。……あ、こっちの、持久系アスリートのための鉄分摂取に関する新説も確認しておかないと」
椿が本を手に取り、夢中でページを捲る。その集中力は、キッチンで包丁を握る時と何ら変わりない。
蓮は少し離れた場所で、彼女の横顔を眺めていた。本を見つめる鋭い瞳、時折納得したように小さく動く唇。誰のためでもなく、自分の信念のために研鑽を積む彼女の姿は、ピッチで一人、ゴールだけを見据える蓮の孤独と、どこか深い場所で共鳴している気がした。
「……あ、あった。天根くん、これ。あなたが以前、メンタルトレーニングに興味があるって言っていたでしょう? ドイツのスポーツ心理学者が書いた、バイリンガル版の原書よ」
椿が差し出してきたのは、少し厚めのハードカバーだった。
蓮は驚いてそれを受け取った。何気なく話した一言を、彼女は正確に記憶し、こうして自分のための本まで探してくれていた。
「……ありがとう。橘さん、自分の本だけ見てれば良かったのに」
「……ついでよ。ついで」
椿はそっけなく答えたが、本を挟んで触れ合った指先が、火花が散ったかのように熱い。二人は弾かれたように手を離し、気まずい沈黙が流れた。
その時だった。
「……ねえ、嘘。あの人、天根蓮じゃない?」
本棚の向こう側から、若い女性たちの忍び笑いと、スマートフォンのシャッター音が微かに響いた。
蓮の背筋に冷たいものが走る。今の自分は、1年生ながら名門クラブ内定という話題の人であり、人々の好奇心の対象だ。ここで騒ぎになれば、この静かな時間は一瞬で壊れてしまう。
蓮が咄嗟に顔を伏せた瞬間、横から椿の手が彼のシャツの袖を強く引いた。
「……こっち!」
椿は迷いのない足取りで蓮を誘導し、書店の奥、照明の届きにくい資料室のようなコーナーへと滑り込んだ。そこは背の高い本棚に挟まれた、行き止まりの狭い通路だった。
「天根くん、壁際に!」
椿は低い声で指示すると、自分は蓮の手前、通路の入り口側に立った。
175センチを超える蓮の体躯は、小柄な彼女が前に立ったところで隠しきれるものではない。
椿はそれを理解した上で、自分自身の存在をこれ以上なく強調するように、棚の最も高い位置にある本へ精一杯手を伸ばした。
その瞬間、追ってきたファンたちが通路の角から姿を現す。
「……あ、あれ? さっきこっちに……」
彼女たちの視線は、狭い通路で必死に本に手を伸ばし、危なっかしく背伸びをしている少女――椿へと向けられた。椿はファンたちに背を向けたまま、わざとらしく「……届かないわね。もっと高い踏み台が必要かしら」と、独り言を呟く。
完璧な「お邪魔な通行人」の演技。その奥の暗がりに完全に身を潜めた蓮の存在を、ファンたちは夢にも思わず、「……違うみたい。向こうのコーナーかな」と、首を傾げながら立ち去っていった。
足音が遠ざかり、完全に静寂が戻っても、椿は腕を下ろさなかった。
手が届かないふりをしていたはずの本を、彼女は無意識に指先で強く押さえていた。
「……もう、行ったわよ」
椿がゆっくりと手を下ろし、振り返った。
狭い通路の行き止まり。壁を背にした蓮と、そのわずか数センチ先に立つ椿。
先ほどまでの冷静な管理士の顔はどこにもなかった。林檎のように赤く染まった頬、乱れた呼吸、そして潤んだ瞳。
蓮は、自分を見上げる彼女の瞳の中に、激しく打つ自分の鼓動が写っているような気がした。
「……橘さん。ありがと」
「……公人としての自覚が足りないわよ。
……帽子を被ってもらったほうが良かったかしら」
彼女の声は微かに震えていた。逃げ場のない本棚の影で、外の喧騒が遠くの波音のように聞こえる。
非日常の時間は、まだ始まったばかりだった。
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