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俺だけの献立 〜隣のスポーツ栄養士志望が俺の食事を管理するらしい〜  作者: はるくぼ
1年生・夏 「ステータスは変われど」

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38食目 初デートと受難

 大型商業施設の自動ドアが開いた瞬間、人工的な冷気が、夏の湿気を帯びた肌を撫でた。


 外の空気は重く、駅からここまで歩いただけで、背中には薄く汗が滲んでいた。だが、一歩中へ入ると、Tシャツ一枚では少し肌寒いほどの冷房が全身を包み、蓮はここがグラウンドでも、校舎でも、四〇一号室でもないことを、妙に強く意識した。


 隣にいる椿も、今日は制服ではなかった。


 柔らかなベージュのブラウスに、膝下まである紺色のスカート。いつもはきっちり結ばれている髪は、今日は少し緩くまとめられていて、歩くたびに細い毛先が首元で揺れる。


 蓮は、自分の白いシャツの裾を無意識に整えた。


 ドイツにいた頃、チームメイトに「少しは格好をつけろ」と言われて買わされた服だった。黒の細身のパンツに、少し大きめの白いシャツ。鏡で見た時は悪くないと思ったのに、こうして椿の隣に立つと、急に落ち着かなくなる。


「天根くん。そこで止まっていないで行くわよ」


「あ、ああ」


「まずは四階の大型書店。次に、昼食の場所を確認するわ。歩き回りすぎると午後の疲労が出るから、移動距離は抑えたいところね」


「普通に出かけるんじゃなかったのか」


「......? 出かけてるじゃない」


 椿は当然のように言った。

 蓮は少しだけ笑い、それから彼女の横顔を見る。


「……橘さん」


「何?」


「今日の服、似合ってるな」


 言ってから、自分でもそんな言葉が出てくることに少し驚いた。


 椿の足が止まる。

 案内板へ向けられていた視線はそのままだった。けれど、トートバッグの持ち手を握る指に、ほんの少し力が入る。


「……そう」


「ああ」


「天根くんも、似合ってるわ」


 早口だった。


 それだけ言うと、椿はすぐに歩き出す。

 髪の隙間から覗いた耳の先が、冷房の中でも少し赤く見えた。


 四階の書店は、天井近くまで本棚が並ぶ広い空間だった。


 専門書コーナーへ入った瞬間、椿の歩調が変わる。案内板を見る時間も惜しいとばかりに、迷いなく栄養学の棚へ向かった。


「これ、前から確認したかった臨床栄養学の新しい特集だわ。……あ、こっちは持久系アスリートの鉄分摂取。発汗量との関係も載っているのね」


 椿は背表紙を指でなぞり、気になる本を抜き取っては、真剣な目でページをめくっていく。


 蓮は少し離れた場所で、その横顔を見ていた。


 ピッチを見る時と同じ目だった。


 包丁を握る時とも似ている。

 タブレットに数値を書き込む時とも同じ。


 自分の目的のために、必要なものを一つずつ拾っていく目。


 その集中の仕方を、蓮は少し羨ましいと思った。


「あった」


 椿が小さく声を上げた。


「天根くん、これ」


 差し出されたのは、厚めのハードカバーだった。表紙には、ドイツ語と日本語のタイトルが並んでいる。


「スポーツ心理学?」


「前に、メンタルトレーニングに興味があると言っていたでしょう。ドイツの研究者が書いた本のバイリンガル版よ。原文も確認できるから、あなたには合うと思う」


 蓮は本を受け取った。


「……覚えてたのか」


「言ったことは覚えているわ」


「自分の本だけ見てればよかったのに」


「ついでよ」


「ついでにしては、棚の場所まで把握してた気がーー」


「ついでよ」


 二度目は、少し強かった。


 本を受け取る時、指先がかすかに触れた。


 ほんの一瞬だった。

 それなのに、蓮の手はそこで止まった。


 椿も同じように、指を引くのが少しだけ遅れた。


「……読み込むのは、帰ってからにしなさい」


「ああ」


 二人は同時に視線を逸らした。


 その時だった。


「ねえ、さっきの人……天根蓮じゃない?」


 本棚の向こうから、若い女性の声が聞こえた。


 蓮の背筋がわずかに固くなる。


 ドイツのクラブへの内定報道以降、こういう視線は増えた。学校でも、駅でも、今日ここへ来る途中でも、何度か振り返られている。


 ただ、ここで騒ぎになれば、椿との時間まで巻き込まれる。


 蓮が顔を伏せようとした瞬間、椿が隣の棚から大判の本を一冊抜き取った。栄養学の図解本だった。


「天根くん、持って」


「え?」


「いいから、顔の高さで開いて」


 言われるまま、蓮は本を開いた。

 椿は蓮の隣に立ち、ページの一部を指差す。


「この図、見て。運動後の回復過程が分かりやすいわ。あなたの場合、この部分の戻りが早い」


「……今それか?」


「ちょっと、声大きい。落として」


 椿の声は低かった。

 本棚の角から、先ほどの女性たちが顔を覗かせる。


「あれ? こっちに来たと思ったんだけど」

「背、高い人いたよね?」

「でも違くない? 顔見えないし」


 蓮は大判の本を開いたまま、息を止めた。

 椿は何事もないように、ページを指でなぞる。


「この表を見る限り、あなたの課題は疲労そのものより、疲労後の食欲低下ね」


「……分かった」


「分かったなら、ちゃんと見て」


 完全に本を選んでいる二人にしか見えなかったのだろう。


 女性たちはしばらく迷ったあと、「向こうじゃない?」と言って離れていった。


 蓮が本を下ろしかけると、椿が慌ててその手に触れた。


「まだ閉じないで。完全に離れるまで」


「ああ」


 椿の指が、蓮の手の甲に触れていた。


 二人とも、同時にそれに気づく。 


 けれど、椿は手を離さなかった。 

 離せば本が下がり、蓮の顔が見える。


 蓮はページの文字を見ているふりをした。

 内容は、一文字も頭に入ってこなかった。


 数秒後、足音が完全に遠ざかり、周囲のざわめきに紛れて消えた。


 椿がようやく手を離す。


「……もういいわ」


 蓮は本を下げた。


「助かった」


「公人としての自覚が足りないわ。帽子くらい被ってくるべきだったわね」


「すまん」


 蓮は自分の手の甲を、何となく見た。

 さっき椿の指が触れていた場所。


 痛みがあるわけでもない。

 熱いわけでもない。


 それなのに、妙に感覚だけが残っている。


「天根くん?」


「あ、いや」


「ぼうっとしている場合じゃないわ。移動するわよ。ここに長くいる方が目立つもの」


「ああ」


 蓮が本を閉じようとすると、椿はその表紙を見て、少し考えるように目を細めた。


「……その本、買おうかしら」


「え、これを?」


「そう。結構わかりやすかったし」


 椿は蓮から本を受け取り、先にレジに向かって歩き出す。

 蓮は、最初に椿が選んでくれたスポーツ心理学の本を抱え直し、その後を追った。



 書店の外へ出ると、商業施設の明るい通路には、夏休み最後の日を過ごす人々の声が満ちていた。


 騒ぎは、もう遠ざかっている。


 けれど、開いた本の陰で数秒だけ触れていた手の感覚は、蓮の中に妙に残っていた。


 それが何なのかは、まだ分からない。

 ただ、手の中の本だけが、少しだけ熱を持っているように感じた。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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