37食目 隣に座る理由
洗い場から響く食器の音が止み、リビングには換気扇の回る微かな音だけが残った。
夕食の片付けを終えた椿は、いつものように背筋を正して顔を上げると、テーブルの向かい側でスマートフォンを眺めていた蓮を真っ直ぐに見据えた。その視線には、ピッチの動きを監視する時のような鋭い光が宿っている。
「そういえば天根くん。あなた、宿題は終わらせたの?」
唐突で、かつ逃げ場のない問いかけに、蓮の指がぴたりと止まった。スマートフォンの画面を操作する動きが不自然に固まり、視線が泳ぐ。
「……あ」
「その反応を見る限り、進捗率は絶望的といったところかしら」
「いや、違うんだ。夏休み入ってすぐインターハイだったし、帰ってきてからは練習試合の連続だっただろ? 物理的に時間が取れなかったっていうか……」
「言い訳はいいわ。今すぐカバンを持ってきてやらないと、間に合わないわよ?」
椿の言葉には一切の容赦がなく、蓮は観念したように自室から重い足取りでカバンを引きずってきた。
テーブルの上に広げられたのは、真っ白な数学のプリントの束と、最初の数ページで止まったままの古文の冊子。一方で、椿が自室から持ってきたノートは、すでに全てのページが埋められており、教科書には付箋が理路整然と並んでいた。
「……橘さん、それ全部終わってるのか」
「当然でしょう。後回しにする理由がないもの」
「マジかよ……」
蓮は手元の数学プリントを睨みつけた。だが、数式はただの記号の羅列にしか見えず、思考は一向に前へ進まない。ペンを回してみたり、消しゴムの角を削ってみたりするが、公式の一つも思い出せなかった。
隣では、椿が涼しい顔をして自分の読書を始めている。ページをめくる規則正しい音だけが、蓮の焦燥感を煽った。
数分間の葛藤の末、蓮は小さく咳払いをし、消しゴムを弄りながら声を絞り出した。
「……あの、橘さん」
「何?」
椿は本から目を離さずに短く答える。
「……これ、どうしても分からないところがあって。その、少しだけ、教えてもらえないか。このままじゃ、絶対終わらないんだ。頼む」
蓮は頭を下げた。
数秒の静寂。焦れる蓮の視線の先で、椿はゆっくりと栞を挟み、本を閉じた。彼女は一度大きな溜息をついてから、椅子を蓮のすぐ隣まで寄せた。
「……仕方ないわね。どこ?見せて」
不意に近づいた彼女から、微かに清潔な石鹸の香りが漂う。蓮は胸の鼓動を誤魔化すように、必死にノートの数式を見つめた。
「いい?そこはまず共通因数で括るの。展開の逆を考えれば分かるはずよ。天根くん、聞いているの?」
「あ、ああ。聞いてる。括るんだな。……でも、ここがマイナスだとどうなるんだ?」
「それは……貸しなさい。ここはまずこの部分を整理して、符号の変化に注意しながら式を立てるの」
教える椿の指先が、蓮のノートを指し示す。最初こそ事務的な態度を崩さなかった椿だったが、蓮が必死に食らいついてくるのを見るうちに、いつの間にか教える口調にも熱が帯び始めた。
「橘さんって、教えるの上手いんだな。学校の先生よりよっぽど頭に入るよ。もしかして、教員免許とかも狙ってるのか?」
「……そんなもの興味ないわ。前に言わなかったかしら?私は、管理栄養士になりたいの。
お世辞を言っても、この山が終わるまで寝かせないわよ」
椿はふいっと顔を避けたが、その声から刺々しさが消えていた。
数時間が経過し、夜の静寂が401号室を包み込む。鈴虫の声が心地よく響く中、テーブルの上には山積みだった宿題の、確かな終わりが見え始めていた。
蓮は、数学の最後の一問を解き終え、大きく背伸びをした。
「……終わった。やっと終わった……。橘さん、本当にありがとう。命の恩人だ」
「……大げさね。でも、これで明日のオフは確保できたわね」
椿が自分のノートを閉じ、背筋を伸ばした。蓮はそんな椿の横顔を盗み見た。長い睫毛が影を落とし、一点を見つめる瞳はまだ少しだけ熱を帯びているように見える。
「……橘さん。明日、もし予定がないなら、出かけないか? 買い出しとか、メニューの相談とか抜きで。普通に」
蓮の唐突な誘いに、椿は動きを止めた。
「どういう風の吹き回し?」
椿が怪訝そうに問い返す。
「いや、ほら。今に始まったことじゃないけど、毎日飯作ってもらったり、今日は宿題も見てもらったし。俺のせいで橘さんの夏休みの予定を大幅に削ってるんじゃないか?
お礼ってわけじゃないけど、橘さんにも羽伸ばしてほしいから」
彼女は机の上の消しゴムのカスを丁寧に一箇所に集めるふりをして、数秒の間を置いてから答えた。
「……いいわ。夏休み最後の一日ですし、精神的なコンディショニングとして羽を伸ばすのも、悪くないかもしれないし。……どこに行くとか決めてるの?」
「いや? 思いつきだったし、何も……」
「じゃあ一緒に決めましょ」
椿は気にしていないように言い放つが、その耳の先は、リビングの照明の下で隠しきれないほど赤く染まっていた。
窓の外では、夏の終わりを告げる夜風が、カーテンを優しく揺らしている。
宿題という現実を突破した二人の間に流れるのは、静かで、確かな温度を持った時間だった。
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