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36食目 心配をよそに

 夏休みが後半に差し掛かる頃、グラウンドを吹き抜ける風はわずかに色を変えていた。

 だが、肌を焼く陽光の暴力的なまでの強さは変わらず、人工芝から立ち上る熱気が視界を歪ませている。インターハイが終わったばかりだというのに、強豪校との練習試合のスケジュールは容赦なく組まれていた。

 校門の周りには、ドイツの絶対王者へのプロ内定のニュースを聞きつけた観客やメディアがカメラを抱えて集まり、一年生にして世界の扉を抉じ開けた天根蓮の姿を、一目見ようと押しかけていた。


「……なんか、練習試合っていう雰囲気じゃないな」


 部室でスパイクの紐を締め直しながら、蓮は外の喧騒を想起して溜息をついた。

 その隣で桐生がユニフォームに着替えながら、鼻で笑った。


「有名人は辛いな、天根。だが、外の観衆なんてどうでもいい。……問題は、今日の相手だ。あいつら、お前を潰すことしか考えてねえぞ」


 今日の対戦相手は、県内でも指折りの武闘派として知られる私立高校だった。

 彼らにとって、バイエルン内定の一年生という肩書きは、敬意の対象ではなく、自分たちの名を売るための格好の標的でしかない。


 試合開始の笛が鳴った直後から、その殺気は物理的な接触となって蓮を襲った。

 中盤で蓮がボールを受けた瞬間、二人のディフェンダーが前後からサンドするように突っ込んでくる。ボールへのアプローチというよりは、蓮の身体を直接狙うような悪質なタックル。

 だが、蓮の反応は周囲の予想を遥かに上回っていた。

 接触する直前、蓮は微かな重心の移動だけで相手の突進をいなし、吸い付くようなトラップでボールをコントロールしたまま、止まることなく前を向いた。


 その後も、審判の死角を突いたラフプレーが執拗に繰り返された。

 ユニフォームを掴もうとする手は空を切り、腰を突き飛ばそうとする肩は蓮の柔らかな身のこなしに透かされる。あからさまな足への踏みつけも、蓮に接触すら許されず、何事もなかったかのようにプレーは続行された。

 三度目、相手のボランチが蓮の膝を狙ってスライディングを敢行したが、蓮はそれを軽やかなステップで飛び越え、着地の瞬間にはすでに前方の桐生へ鋭いパスを供給していた。


「おい、審判! 今のがカードじゃないってのか!?」


 ベンチから飛び出したのは、普段は沈着冷静な監督だった。

 彼はテクニカルエリアの境界線ギリギリまで詰め寄り、顔を真っ赤にして主審に抗議する。


「天根一人の問題じゃない! 選手の選手生命を奪うようなプレーを野放しにするなら、今すぐこの試合を中止するぞ! 相手がどこの誰であろうと、うちの10番を壊させてたまるか!」


 監督の怒号に呼応するように、ピッチ上でも桐生が相手キャプテンの胸ぐらを掴みかけていた。


「おい。さっきから見てりゃ、ボールじゃなくて足ばっか狙ってんじゃねえか。プロ内定がそんなに羨ましいか? ……そんなにうちの10番が怖いなら、試合なんて受けるんじゃねえよ」


 桐生の瞳には、かつてないほどの怒りが宿っていた。

 蓮がプロになろうが、世界のどこへ行こうが、彼らにとって蓮は同じ釜の飯を食い、日本一を目指す常盤台の10番だ。チームの大黒柱を不当に傷つけようとする行為は、常盤台サッカー部全体の誇りを踏みにじることに他ならなかった。


 騒然とするピッチの中、当の蓮はといえば、ユニフォームの襟を整えながら何事もなかったかのように立ち位置を戻していた。

 激昂する桐生の腕を軽く叩き、落ち着かせるように首を振る。その表情には、恐怖も怒りも、ましてや僅かな動揺すらも浮かんではいなかった。


「桐生さん、大丈夫ですよ。怪我もしてないし、痛みもありませんから。これくらい、ドイツじゃ普通でしたよ。あっちの連中はもっと、挨拶代わりに削ってきましたからね。それに比べれば、こっちはまだ可愛いもんです」


 蓮は事もなげに言い放ち、相手の選手たちを一瞥することさえしなかった。

 その飄々とした態度は、相手にとっては何よりも屈辱的だったに違いない。自分たちが死に物狂いで仕掛けた威嚇が、彼にとっては「気にするに値しない日常」でしかなかったのだ。


 結局、試合は蓮の圧倒的な格の違いを見せつける形で進んだ。

 蓮は徹底マークを逆手に取り、自分が囮となって中盤に広大なスペースを作り出す。後半、蓮の魔法のようなスルーパスから桐生がこの日4つ目の得点を重ね、試合は幕を閉じた。

 試合終了の笛が鳴った時、蓮のユニフォームには汚れ一つ付いていなかった。



 

 練習試合を終え、蓮が自宅の扉を開けたのは、日が完全に沈んだ頃だった。

 室内には、いつものように換気扇の回る音と、芳醇なスパイスの香りが満ちている。

 キッチンでは、椿が既にエプロン姿でフライパンを振っていた。


「おかえりなさい、天根くん。散々な試合だったわね。……怪我がないのは見ていれば分かったけれど、一応座りなさい。見様見真似だけど、アイシングの準備をするから」


 椿は背中を向けたまま言ったが、その声にはピッチで見せていた冷徹な観察眼とは異なる、どこか安堵に近い響きが混じっていた。


「……ありがとう、橘さん。悪かったな、あんな荒れた試合を見せて」


 蓮が椅子にゆったりと腰を下ろしてアイシングをしていると、椿が調理を終え、夏野菜をふんだんに使った特製カレーを運んできた。

 彼女は蓮の前に皿を置くと、自分も向かい側に座り、何も言わずにスプーンを手にする。


「……食べなさい。怪我はしていなくても、極限の集中状態で中枢神経は疲弊しているはずよ。それをリセットするためのスパイス配合にしてあるわ」


 蓮はカレーを口に運んだ。

 スパイスの刺激と野菜の旨味が、試合で張り詰めていた意識をゆっくりと解きほぐしていく。


 今朝、桐生が蓮の耳元で囁いたあの言葉。

「お邪魔だったか?」

 蓮は、その言葉を思い出し、不意に気恥ずかしさが込み上げた。あの時、グラウンドの隅にいた椿には、もちろん聞こえているはずがない。そう自分に言い聞かせながら、蓮は向かいに座る少女を盗み見た。


 椿は黙々とカレーを口に運んでいる。その表情はいつものように冷静で、何事もなかったかのように食事を続けている。

 だが、蓮は気づいた。

 彼女の白い耳の先が、キッチンの熱気のせいだとは説明できないほど、真っ赤に染まっていることを。

 彼女は何も言わない。聞いたとも、怒っているとも、恥ずかしいとも。ただ、その沈黙と耳の赤さだけが、彼女がすべてを知っており、それでもなお「管理士」としての役割を完遂しようとしている証だった。


 蓮はカレーを一口運び、その温かさにようやく人心地ついた。

 外の世界ではスターとして品定めされ、ピッチでは異分子として扱われる。だが、この部屋で、耳を赤くしながら自分のために料理を作る少女の前にいる時だけ、自分はただの十六歳の天根蓮に戻れる。


「……今日さ、監督や桐生さんがあんなに怒ったの、ちょっと意外だったよ。俺が狙われるのは、まあ、向こうから戻ってきた時から想定内だったし。実際、怪我するようなレベルでもなかったしな」


 蓮が何気なく投げかけた言葉に、椿はスプーンを止め、伏せていた睫毛をゆっくりと上げた。その瞳には、管理士としての冷徹な分析ではなく、もっと根源的な、鋭い光が宿っている。


「……あなたが平気でも、周りは平気じゃないわ。もちろん、私も。……データ上は無傷でも、あんな下劣な接触を繰り返されて、気分が良いはずないわ」


 椿は吐き捨てるように言うと、逃げるようにグラスの水を飲み干した。

 普段は理論と数値で武装している彼女が、初めて見せた「感情」の露呈。それは、先ほどの桐生のからかいに対する動揺よりも、ずっと深く、蓮の胸に刺さった。


「……悪い。次はもっと、相手に触れさせもしないよ」


「……当然よ。心配させないで」


 椿は再び顔を背け、空になった皿を片付けに席を立った。


「……?」


 キッチンへ向かう彼女の耳は、やはりまだ熱を持ったまま赤く染まっている。

 窓の外では、夏の終わりを告げるヒグラシの声が、夜の静寂に溶けていく。

 二人だけの聖域で交わされる、沈黙という名の答え合わせ。

 その熱は、灼熱の太陽が沈んだ後の部屋で、静かに、けれど確実に高まっていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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