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35食目 変わらないもの

 ドイツからの帰国翌日。蓮は、蝉時雨が降り注ぐ夏休みの校庭を歩いていた。


 インターハイの遠征が終わったばかりの校内は、静まり返っている。普段なら部活動の生徒たちが活気に満ちているはずだが、準決勝で敗退し、数日間のオフを与えられたサッカー部のグラウンドには、今は誰もいない。

 校舎の壁に掲げられた「祝・インターハイベスト4」という垂れ幕が、熱風に煽られて力なく揺れていた。その場にいなかった自分を責めるような静寂が、蓮の心に重くのしかかる。


 蓮が部室の鍵を借りるために職員室へ向かうと、そこには夏休みの出勤をしていた数人の教師たちがいた。


「おお、天根! ニュース見たぞ!」


 一人が声を上げると、静かだった職員室が一変した。

 教師たちは椅子を蹴るようにして立ち上がり、蓮を囲んだ。ドイツ名門とのプロ契約。その衝撃は、生徒の間だけでなく、大人たちの間でもすでに制御不能な熱狂となって広がっていた。


「史上最年少での海外直契約なんて、開校以来の快挙だよ。校長も喜んでるぞ。選手権の結果次第では、さらに特大の垂れ幕を出す予定だ」


 蓮は愛想笑いを浮かべながら、借りた鍵を握りしめた。

 敗退したばかりのチームメイトたちがどのような思いで夏休みを過ごしているか、そんなことはこの祝祭のムードの中では一切考慮されていない。彼らにとって蓮は、すでに常盤台高校という枠を超えた、世界の共有財産のように扱われていた。


「……ありがとうございます。でも、今はまだ選手権が残っているので」


 短く言葉を残し、蓮は逃げるように職員室を後にした。

 冷房の効いた廊下から外へ出ると、再び暴力的なまでの陽光と熱気が全身を包む。プロ契約という輝かしい切符。それと引き換えに、自分はこの静かな日常から、そして仲間たちとの「共有された痛み」から、強制的に切り離されてしまったような感覚が拭えない。


 そんな蓮の視線の先に、グラウンドのベンチでタブレットを見つめる一人の人影があった。

 橘椿。彼女は夏休みだというのに、当たり前のようにそこにいた。

 彼女がドイツのラボからの破格の誘いを、自分という個体の管理のために蹴ったこと。その事実は、この広い校内の誰一人として知らない。


 蓮は彼女の隣に腰を下ろした。


「……橘さん、こんな暑い中で何してんだよ」


 椿はタブレットから目を離さず、淡々と答えた。


「あなたの帰国後のバイオリズムを再計算していたのよ。ドイツの乾いた空気から、この日本の不快な湿気への適応。そのストレスを最小限に抑えるための献立を組み直す必要があるわ」


「……プロ契約のこと、職員室じゃ大騒ぎだったよ。まるで俺がもう、この学校の人間じゃないみたいに」


 蓮が自嘲気味に呟くと、椿は初めてタブレットを閉じ、真っ直ぐに蓮を見た。


「当然でしょう。彼らにとって、あなたはもう完成された『結果』なのよ。でも私にとっては違うわ。あなたはまだ、私の中では発展途上の肉体に過ぎないもの」


 その言葉は、冷たく響きながらも、蓮の焦燥を不思議なほど落ち着かせた。

 周囲が自分を「特別なスター」として祭り上げる中、彼女だけが自分を「未完成の素材」として扱い続けてくれる。それが、今の蓮にとってどれほどの救いか。


「……そっか。あんただけは、変わらないんだな」


「変わる理由がないわ。……それより、あっちでプロ契約を結んだからって、食生活を緩めるつもりじゃないでしょうね? そんなこと許さないから」


 椿の言葉に、蓮は思わず吹き出した。

 彼女はドイツでの破格のキャリアを捨てたことなど、おくびにも出さない。ただ世界で唯一、天根蓮の専属管理士として、ここに立っている。


「……ああ、わかってるよ。橘さん」


 その時、グラウンドの入り口から、スパイクの音が響いた。

 見ると、そこには自主練のために現れた桐生たちがいた。

 彼らは蓮と椿の姿を見つけると、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつものような、どこか不敵な笑みを浮かべた。


「おう、天根! ドイツ帰りがいきなり自主練かよ。プロ様は気合が違うな!」


 桐生が声を張り上げながら歩み寄ってくる。

 彼らの瞳には、大人たちが向けるような下卑た羨望はなかった。ただ、エースがいなかった間に自分たちがどれだけ飢えていたか、それをピッチで証明してやるという、純粋な闘争心だけがあった。


「……桐生さん。俺、まだここにいていいんですかね」


 蓮の問いに、桐生は無造作に蓮の頭を小突いた。


「バカ言え。プロ契約つったって、卒業後の話だろ?なら今は、お前が常盤台の10番であることに変わりねえだろうが」


 その言葉に、蓮の胸の奥で燻っていた澱が、ようやく晴れていくのを感じた。

 周囲がどれだけ騒ごうと、自分が戦うべき場所はここにある。自分を信じる仲間と、自分を怪物へと変える少女。その両方が、この暑い夏のグラウンドに揃っていた。


「……はい。やってやりますよ」


 蓮は立ち上がり、バッグからスパイクを取り出した。

 常盤台の天根蓮として戦う、最後にして最強の夏。そして、その先にある冬の選手権。

 隣で再びタブレットを開いた椿が、満足そうに口角を上げたのを、蓮は見逃さなかった。


 桐生が、ニヤついた顔で蓮の耳元へ顔を近づける。


「んなことよりも、もしかして、お邪魔だったか?」


「んなっ…」


「バーカ、冗談だ。おまえが色恋沙汰をピッチ内に入れるはずないもんな」


 そういって桐生は離れていく。


「……当然です」


 動揺していた蓮は、少し頬を赤らめる自身の隣で、椿の耳がまた赤くなっていることに気づかなかった。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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