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34食目 浮気はしない

 羽田空港の到着ゲートを抜けた瞬間、蓮を襲ったのは、ドイツの乾いた空気とは真逆の、肌にまとわりつくような日本の湿った熱気だった。

 数日前の雨は上がり、アスファルトからは不快な熱が立ち上っている。だが、今の蓮にとってその重苦しい空気すらも、自分が不在によって守れなかった場所の一部であるように感じられた。


 タクシーでマンションへ向かう道中、蓮は一度もスマートフォンを開かなかった。

 桐生や監督から届いているであろうメッセージを見る勇気が、今の彼にはまだなかった。ハンスの言った通り、プロとしての切符を手に入れた代償はあまりにも重く、喉の奥に苦い澱のように溜まっている。


 401号室の扉の前で、蓮はわずかに躊躇した。

 深呼吸を一つ。鍵を回し、静かにドアを開ける。


 室内には、聞き慣れた換気扇の回る音と、鼻先をくすぐる優しい出汁の香りが漂っていた。

 リビングのソファには、タブレットを膝に置いた椿が既に座っていた。彼女は蓮の姿を認めると、ふっと表情を緩め、椅子から立ち上がって「おかえり、天根くん」と彼を迎えた。


「……ああ。今、戻った」


 蓮はスポーツバッグを床に置き、力なく椅子に腰を下ろした。沈黙が流れる。蓮の肩が、いつもよりわずかに落ちているのを、椿は見逃さなかった。


「……準決勝、聞いたよ。1対3だったって」


 蓮の言葉に、椿はキッチンのカウンターに手をかけ、少しだけ寂しそうに目を伏せた。


「ええ。スタジアムの隅でこっそり見ていたわ。……あの日、合宿で私の食事を食べてくれたみんなが、必死に泥だらけになって走っていて。でも、やっぱり、あなたがいないとどこか寂しそうに見えたわ」


 彼女の口調には、同じ場所で戦った仲間たちを案じる、等身大の優しさが混じっていた。

 蓮はスープボウルから立ち上る湯気を眺めながら、懐から一通の封筒――ドイツでの契約書の控えを取り出した。


「……あっちでプロ契約を結んできた。それで、ハンスがあんたのことも高く評価してた。クラブのラボの長として迎えたいって。提示された年俸は、俺の初年度より高い」


 椿の手が、ぴたりと止まった。

 彼女ほどの知性があれば、それが管理栄養士を目指す者にとってどれほどの破格の契約であるかは即座に理解できる。世界最高峰の設備、潤沢な資金、そして自分の理論を世界に知らしめる最短距離。


 椿は目を見開き、わずかに唇を震わせた。


「……私が、ドイツのラボに?」


「ああ。あいつは本気だ。あんたの才能を、世界中の選手のために使わせろって言ってる。……あんたなら、あっちでも成功するんだろうな」


 蓮は、どこか突き放すような、けれど彼女の未来を尊重しようとする複雑な声で言った。

 椿は数秒、その場で立ち尽くしていた。動揺は明らかだった。だが、彼女はゆっくりと深呼吸をすると、鍋の火を止め、蓮の前にスープボウルを置いた。


「……光栄だわ。私の計算が、そんな場所まで届いたなんて」


 椿は蓮の隣に座り、真っ直ぐに彼を見つめた。


「でも、お断りするわ。……今の私は、世界中の誰かのためじゃなくて、目の前のあなたの管理に集中したいの。天根くんという『最高傑作』が完成するまで、私は他に浮気するつもりはないわよ」


 その言葉に、今度は蓮が言葉を失った。


「……いいのかよ。あんな条件、二度とないかもしれないんだぞ」


「いいの。あなたの隣が、世界で一番やりがいのある現場なんだから。それに忘れてない?私はまだ高校生で、栄養士の資格なんて持ってないもの。なりたくてもなれないわ。

 ……そんなことより、さっき送ってくれたドイツでの検査結果。本当に凄かったわよ。私のやってきたことが、世界で一番の正解だったって、あなたが証明してくれた。……ありがとう、天根くん」


 湯気と共に立ち上る香りが、強張っていた蓮の胃を、ゆっくりと解きほぐしていく。彼女は蓮の傷を否定せず、ただ「お疲れ様」という想いを、温かな食事に込めて差し出していた。


「……これを飲んで。時差ボケで疲れた体に一番効くように作ったから。天根くんがいない数日間、キッチンが広すぎて、なんだか調子が狂っちゃったわ」


 蓮はスープを一口啜った。

 優しい塩気と、野菜の旨味が五臓六腑に染み渡る。

 彼女の少し照れたような、けれど自分の意志でここにいると告げる力強い眼差しを見て、蓮は自分がようやく「一番大切な場所」に帰ってきたことを実感した。


「……橘さん」


「何?」


「……美味いよ。やっぱり、あんたの飯を食うと、生き返る気がする」


 蓮の言葉に、椿は少しだけ頬を染め、ふいっと顔を背けた。


「……当然よ。私の特製なんだから。さあ、それを飲み干したら今日はもう休みましょう。明日からはまた、私の厳しい管理が始まるんだから覚悟しておいてね。……契約を結んだからって、私の手から離れられると思ったら大間違いよ?」


 その言葉は、彼にとって何よりも心強い、温かな絆だった。

 常盤台の夏は終わったが、天根蓮と橘椿の、二人三脚の挑戦はここから加速していく。

 蓮は最後の一滴までスープを飲み干し、窓の外、まだ湿り気を帯びた日本の夜景を見つめた。


 次の場所へ。世界で唯一、自分を最高傑作にしてくれる彼女と共に。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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