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俺だけの献立 〜隣のスポーツ栄養士志望が俺の食事を管理するらしい〜  作者: はるくぼ
1年生・夏 「ステータスは変われど」

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34食目 浮気はしない

 羽田空港の到着ゲートを抜けた瞬間、蓮を包んだのは、日本の湿った熱気だった。


 ドイツの乾いた空気とは違う。

 肌にまとわりつき、呼吸の奥に残るような重さ。


 数日前の雨はもう上がっていた。外へ出ると、アスファルトから熱が立ち上り、タクシー乗り場には夏の夜の匂いがこもっている。


 蓮はスポーツバッグを肩にかけたまま、しばらく足を止めた。


 戻ってきた。

 そう思った瞬間、胸の奥に別の重さが落ちる。


 常盤台の夏は、もう終わっている。


 タクシーに乗っても、蓮はしばらくスマートフォンを開かなかった。


 監督からの連絡。

 桐生からのメッセージ。

 チームメイトたちの言葉。


 届いていることは分かっている。


 けれど、今すぐそれを見るだけの整理が、まだ蓮の中にはなかった。


 手元の鞄には、ドイツで署名した書類が入っている。


 世界へ進むための切符。

 ずっと目指してきた場所へ続く道。


 それと同じ重さで、準決勝の結果が胸に残っていた。


 マンションに着き、エレベーターで四階へ上がる。

 四〇一号室の前で、蓮は一度だけ息を吐いた。


 鍵を回して扉を開けた瞬間、聞き慣れた換気扇の音がした。

 それから、出汁の香り。


 キッチンには、椿がいた。


 制服の上にエプロンをつけ、鍋の前に立っている。テーブルには、蓮が送った検査結果を印刷した紙と、赤いペンで書き込まれたメモが広がっていた。


 椿は蓮を見ると、鍋の火を少し弱めた。


「おかえりなさい」


「……戻った」


「荷物、そこに置いて。先に座って」


 いつも通りの声だった。


 責めるでもない。

 慰めるでもない。


 ただ、帰ってきた選手を席に座らせる声。

 蓮はスポーツバッグを床に下ろし、椅子に腰を下ろした。


 身体が重い。

 飛行機の疲れだけではなかった。


「準決勝の結果は、聞いた」


「でしょうね」


 椿は鍋をかき混ぜながら答えた。


「一対三。後半に一点返したけど、届かなかった」


「ああ」


「桐生先輩たちは、最後まで走ってたわ。合宿で積んだものは、ちゃんと残っていたと思う」


 椿は一度、手を止めた。


「でも、足りなかった」


 その言葉は、蓮の胸に静かに沈んだ。


 椿は振り返らない。


「食事で支えられるものはある。でも、あなたがピッチで作っていた判断の穴までは、私の料理では埋められない」


「……俺がいなかったから」


「そうね」


 椿は否定しなかった。

 蓮は顔を上げた。


「否定、しないのか」


「しないわ。あなたがいなかった影響はあった。そんなもの、試合を見れば分かる」


 椿は器を取り出し、スープを注ぐ。


「でも、それとあなたがドイツへ行った判断が間違いだったかどうかは、別の話よ」


 蓮は言葉を失った。

 椿はスープの器を蓮の前に置いた。


 透明に近い出汁に、柔らかく煮た野菜と、少しだけほぐした鶏肉が入っている。香りは強すぎず、胃に入る前から身体の力が抜けていくようだった。


「まず飲んで。時差と移動疲労があるから、今日は重くしない」


 蓮は器に手を伸ばした。


 ひと口、飲む。


 温度は熱すぎない。

 塩気も強くない。

 けれど、身体の奥に残っていた硬さが、少しだけほどけていく。


「……美味い」


「当然よ。帰国直後用に組んだんだから」


 椿は向かいに座った。

 蓮はスープを見つめたまま、鞄から封筒を取り出した。


「契約、通った」


「ええ。メッセージで見たわ」


「卒業後加入を前提にした合意書だ。正式契約はまだ先だけど、席は確保された」


「おめでとう」


 椿の声は、静かだった。

 大げさな祝福ではない。


 ただ、その言葉の中には、確かな重みがあった。


「それと」


 蓮は封筒から別の紙を出した。


「ハンスが、橘さんのことも評価していた」


「私?」


「ああ。検査結果を見て、食事管理のやり方を知りたいと言っていた。クラブとしても、将来的に話をしたいと」


 椿の手が止まった。


「……ドイツのクラブが?」


「今すぐラボの責任者に、みたいな話じゃない。橘さんはまだ高校生だし。だから、現実的には、研修とか、将来的な専属契約とか、そういう形になると思う」


 蓮は、少しだけ言葉を選んだ。


「ただ、向こうは本気だった。橘さんの管理は、ドイツでも通用した」


 椿はしばらく黙っていた。

 テーブルの上の検査結果へ視線を落とす。


 心肺機能。

 回復速度。

 負荷後の反応。

 栄養状態。


 そこに並んでいる数字は、椿が毎日見てきたものが、別の国の設備で確かめられた証拠だった。


「……そう」


 椿は小さく息を吐いた。


「私の見立て、間違ってなかったのね」


「間違ってなかった」


「世界の設備で見ても?」


「見ても」


 椿は、ほんの少しだけ目を伏せた。


 嬉しそう、というより、何かを確認したような顔だった。


「それは、かなり嬉しいわ」


 蓮は椿を見た。


「行きたいか」


 椿はすぐには答えなかった。


 ドイツ。

 名門クラブ。

 最新の設備。

 自分の理論を、世界の選手たちで試せる場所。


 管理栄養士を目指す人間にとって、それがどれほど大きな意味を持つか、椿に分からないはずがない。


 それでも、椿は静かに首を横へ振った。


「今は、行かない」


「いいのか」


「いいの。というより、今の私が行っても意味がないわ」


 椿は、いつものように淡々と言った。


「私はまだ高校生で、資格もない。知識も経験も足りない。世界のラボに入ったところで、肩書きだけが先に行く」


「でも、向こうは評価してる」


「評価されたことは嬉しい。でも、今の私が一番見たいものは、そこじゃない」


 椿は、蓮を見る。


「天根くん。あなた、まだ完成してないでしょう」


 蓮は黙った。


「私は、あなたがこれからどう変わるのかを見たい。私の食事で、私の記録で、私の調整で、どこまで伸びるのかを見たい」


 椿は、テーブルの上の検査結果を指で軽く押さえた。


「ドイツで認められたのは、完成品じゃない。途中経過よ」


「途中経過......」


「ええ。なら、途中で現場を離れる理由がない」


 蓮は、少しだけ息を吐いた。

 椿は続ける。


「それに、私は世界中の選手を管理したいわけじゃない。少なくとも今は。私が一番深く見られる相手を、一番深く見る。その方が、私の理論は伸びる」


「それが俺だと?」


「今はね。途中経過を放り出して、別の現場に浮気するつもりはないわ」


 椿は即答した。


 その言い方が、いかにも椿らしくて、蓮は思わず口元を緩めた。


「強いな、橘さんは......」


「なんて?」


「いや。相変わらず合理的だなって」


「あなたには言われたくないわね」


 椿はスープの器を指した。


「飲み終わったら、次はご飯。今日は量を抑えるけど、明日の朝には戻す。時差の影響を見るから、寝る前に体温と脈も確認するわ」


「帰ってすぐそれか」


「当たり前でしょう。契約を取って帰ってきたからって、身体の管理が終わるわけじゃないもの」


 蓮はスープをもう一口飲んだ。


 胸の奥にあった重さが消えるわけではない。


 常盤台の夏は終わった。

 準決勝には立てなかった。

 桐生たちは蓮のいないピッチで戦い、負けた。


 その事実は、これからも残る。

 けれど、目の前には食事がある。

 帰ってきた身体を見ている椿がいる。


 次に何を食べるか。

 どう戻すか。

 どこへ向かうか。


 それを考える場所が、ここにはあった。


「橘さん」


「何?」


「帰ってきてよかった」


 椿は少しだけ目を細めた。


「当たり前よ。帰ってこないと、私の管理が続かないじゃない」


「そうだな」


 蓮は最後の一口を飲み干した。


 出汁の香りが、喉の奥に残る。


 ドイツで手にした書類。

 雨の中で終わった常盤台の夏。

 そして、四〇一号室の食卓。


 どれも、もう切り離せない。


 蓮は器を置き、窓の外に広がる日本の夜を見た。


 次の場所へ進むために、まずはこの一食から戻していく。


 椿はすでに、明日の朝食のメモを書き始めていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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