26食目 見つかった怪物
インターハイ予選での優勝から一週間。常盤台高校のグラウンドを囲むフェンスの外側には、明らかにこれまでとは質の異なる異物が混じり始めていた。
梅雨特有の湿った空気の中、バックネット裏や校門付近に佇む、日焼けした肌に安物のスーツを着崩した男たち。彼らは生徒たちの喧騒に目を向けることなく、ただ一点、ピッチ中央で淡々とボールを捌く背番号十の動きだけを追っている。
国内主要クラブのスカウト、あるいは県内外の強豪大学の関係者。
蓮が予選で見せた、九十分間全く衰えることのない怪物性は、地方の一予選という枠組みを軽々と飛び越え、全国の専門家たちの耳に届いていた。彼らにとって、蓮はもはや単なる有望な一年生ではなく、早期に確保すべき一級の投資対象へと変わっていた。
練習中、蓮がトラップするたびに、パスを通すたびに、男たちは手元の資料に何かを書き込み、無機質な視線を送る。その視線は、熱狂的なファンのそれとは違い、家畜のセリに似た冷徹な評価の眼差しだった。
浮き足立っているのは、むしろ周囲の部員たちだった。プロスカウトの視線に晒されているという緊張感から、不必要なアピールに走る者や、逆に委縮してミスを重ねる者が続出している。チーム全体に、不協和音のような微かなノイズが混じり始めていた。普段は蓮を信頼して動いているチームメイトたちも、スカウトが自分たちの動きもまた蓮と比較されていることに気づき、プレーの精度を乱していく。
しかし、当の蓮だけは、それらの視線を背景の石ころか何かのように完全に無視していた。
彼にとって重要なのは、フェンスの外の誰かへのアピールではなく、自信のコンディションや、技術の昇華だ。練習の合間にボトルを口にする際も、彼の視線はただ一点、自分にだけを向いていた。外の世界がどれだけ騒ごうとも、彼が戦っている相手は、常に自分自身の成長でしかなかった。
その日の夕方、四〇一号室。
窓の外には、蓮を一目見ようと着いてきた他校の生徒や、近隣のサッカーファンらしき影がまだ数人残っていた。椿は決して窓付近に近づかないようにし、いつものように計算し尽くされた夕食をテーブルに並べる。今日のメニューは、湿度による疲労感を軽減するため、ビタミンB1とクエン酸の摂取を強化し、胃腸への負担を最小限に抑えた煮込み料理を中心に据えていた。
「……外が騒がしいわね。さすがだわ。私の予想より早く世間に見つかったわね。下校時もつけられていたようだし、移動だけで精神的なコストを削られているんじゃない?」
椿は心配するように切り出した。彼女にとっても、スカウトの存在自体は正直どうでもいい。だが、彼らがもたらす環境の変化が、蓮のコンディションを乱す精神的なストレッサーになることだけが心配の種だった。どれだけ完璧な食事を提供しても、慢性的なストレスによる自律神経の乱れがあれば、栄養の吸収効率は著しく低下する。
「……大丈夫。ただ、視界がうるさいだけだ。プレーにも影響はないよ」
蓮は箸を止めることなく、無機質に答えた。
椿は、その咀嚼のテンポや、食事に集中する蓮の眼光を確認する。顎の動きは一定で、嚥下のタイミングにも迷いがない。今のところ、外部のノイズが彼の消化吸収効率を落とすまでには至っていないと判断し、椿は手元の管理シートに静かにチェックを入れた。
「そう言い切れるのは、まだ相手が外にいるからよ。あなたの活躍が全国区になれば、そのノイズはもっと直接的に、あなたのテリトリーに踏み込んでくる。食事や睡眠、移動の合間の静寂といった、あなたの生活すら侵しに来るんじゃない?」
「そうはさせない。俺のやるべきことは変わらない。ピッチでの結果と、ここで摂る食事だけだ。それ以外の情報は、今はすべて遮断して構わない」
蓮の言葉には、一点の迷いもなかった。
椿は、その傲慢なまでの自信に、わずかな安堵を覚える。
今、この男は、どれだけ周囲が騒ごうとも、自分という個体の完成以外には興味がない。その徹底したストイシズムがある限り、自分の栄養管理が揺らぐことはないだろう。それどころか、外部からの圧力が増せば増すほど、蓮にとってのこの部屋の、そして椿の提供する食事の重要性は、相対的に高まっていくとすら感じる。
「そうね。あなたがそう言うなら、それでいいわ。私のやるべきことも変わらないから。……明日からは、さらに気温と湿度が上がる予報。発汗量が増える分、ミネラルの補給タイミングを細かく設定し直すわ。練習メニューの変更や、スカウトの接触で予定が狂うことがあれば、早く共有してちょうだい」
「ああ。そうするよ。いつも世話かけるな」
二人の視線は、今この瞬間よりも将来へと向けられている。
迫りくる全国大会という、より巨大な戦場。そこへ向けて、自分たちの純度をどこまで高められるか。
外の喧騒を遮断したこの狭い食卓こそが、今の彼らにとって唯一の、そして最強の要塞だった。
しかし、その静寂を切り裂く影は、海の向こう側で静かに動き出していた。
ドイツの、かつて蓮が所属していたクラブのオフィス。深夜の静止した空気の中で、モニターが青白く光っている。そこに映し出されているのは、雨のスタジアムで相手の守備を嘲笑うように切り裂く、蓮のプレー動画だった。
日本のスカウトたちがようやく気付き始めたその真価を、彼らは何年も前から知っている。
まだ、誰も知らない。蓮を囲む日本の大人たちの視線など、これから訪れる巨大なうねりに比べれば、あまりに些細なノイズに過ぎないことを。
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