27食目 合宿前
期末試験が終わると、校内の空気は少しずつ夏休みへ傾き始めた。
教室では補習や遠征の予定が話題になり、廊下の掲示板には夏季講習、各部の合宿予定、校外実習の案内が並んでいる。その中で、スポーツ栄養科の掲示板に一枚の紙が貼り出された。
夏季特別実習。
通称、部活動帯同実習。
全国大会を控えた強化指定クラブや、夏季合宿を行う運動部に、スポーツ栄養科の生徒が実習生として帯同する制度だった。現場の管理栄養士の補助に入り、献立作成、食材管理、補食準備、選手の状態観察までを行う。
中でもサッカー部は、毎年希望者の多い枠の一つだった。
常盤台高校サッカー部は、全国常連の強豪だ。
練習強度も、合宿の負荷も、他の部とは一段違う。
教室で学んだ知識を、全国を目指す選手たちの身体に直接ぶつけられる。
スポーツ栄養科の生徒にとって、サッカー部の帯同実習は、ただの実習先ではなかった。
「今年もサッカー部あるんだ」
「そりゃあるでしょ。インハイ出るんだし」
「でも今年は天根くんいるから倍率高そう」
掲示板の前で、そんな声が上がる。
椿は、その声には反応しなかった。
倍率が高いかどうかは関係ない。
希望者が多いかどうかも関係ない。
派遣先の一覧にサッカー部の名前がある。
それだけで、椿の中の優先順位は決まっていた。
これまで椿が見てきたのは、天根蓮という一人の選手だった。
四〇一号室を中心に、蓮一人の身体を見て、食事を組み替えてきた。
けれど、全国を戦うのは蓮一人ではない。
蓮が最後まで判断を残しても、走る相手がいなければ、パスは届く場所を失う。
蓮を最高の状態にする。
その目的は変わらない。
ただ、そのためには、蓮の周囲にいる選手たちも、全国の強度に耐えられる状態でなければならなかった。
翌日、学年首席として最初に希望先を聞かれた椿は、迷わずサッカー部と答えた。
周囲が少しざわついた。
サッカー部は人気枠。
今年は全国出場。
そして、天根蓮がいる。
その枠を、首席の椿が取る。
外から見れば、それは自然な選択に見えたかもしれない。
けれど椿にとっては、少し違っていた。
サッカー部を見たいからではない。
全国常連の現場を経験したいからだけでもない。
蓮を全国で勝たせるために、蓮の周囲まで見なければならない。
それが、椿の答えだった。
合宿出発の三日前。
椿は、サッカー部専属の管理栄養士である相模のもとへ挨拶に向かった。
相模は三十代後半の女性だった。短くまとめた髪に、動きやすい服装。机の上には、合宿所の食材発注表、選手のアレルギー確認票、練習予定表、補食リストが重なっている。
部屋に入った時点で、椿はその量に目を留めた。
五十人分。
蓮一人の資料とは、紙の厚みが違う。
「橘椿です。今回、夏季特別実習でサッカー部に帯同させていただきます。よろしくお願いいたします」
椿が頭を下げると、相模は顔を上げた。
「あなたが橘さんね。首席だって聞いてるわ」
「はい」
「じゃあ、まず出してもらった実習計画書を見せてもらうわね」
相模は椿が差し出したファイルを受け取り、椅子に座ったままページをめくった。
最初は、確認するような速度だった。
派遣期間中の目標。
選手の状態観察項目。
朝食、昼食、夕食、補食の基本方針。
暑熱環境下での水分補給とミネラル補給の考え方。
相模の指が、一度止まった。
次のページをめくる。
練習強度ごとの補食タイミング。
発汗量の推定。
食欲が落ちた選手への代替メニュー案。
試合形式練習後の回復食。
就寝前に胃へ負担を残さないための調整案。
相模は、そこで初めて椿を見た。
「これ、どこまであなたが作ったの?」
「全部です」
「参考文献は?」
「最後に一覧をつけています。教科書以外に、大学の公開資料と、スポーツ栄養関係の書籍を使いました」
「実測データの欄があるけど」
「個人が特定されない形で、これまで継続して見てきた選手の記録を整理しました。食事内容、練習後の状態、翌朝の疲労感、試合中の変化です」
相模はもう一度、資料へ目を落とした。
椿は黙って待った。
部屋の外では、サッカー部員の声が遠く聞こえている。廊下を走る足音。どこかの教室で椅子を引く音。夏休み前の学校にある、少し浮いた音だった。
けれど、この部屋の中だけは静かだった。
相模が資料の一部を指で押さえる。
「この補食の入れ方。教科書通りじゃないわね」
「はい。教科書の基準量をそのまま使うと、対象選手には練習前に少し重く出ました。なので、量を分けて、摂るタイミングをずらしています」
「こっちの水分量は?」
「気温と湿度、練習時間、体重変化からの推定です。ただ、発汗量には個人差が大きいので、合宿では一律には使えないと思っています」
「……分かってるのね」
相模の声は、少しだけ低くなった。
目の前の生徒が、どこまで理解しているのか。
自分の資料の強さと危うさを、どこまで分かっているのか。
相模は、資料に視線を落としたまま続ける。
「......そういうことだったのね」
「何がでしょうか」
「天根くんよ」
その名前が出た瞬間、椿の指先がわずかに止まった。
「一学期の途中から、彼の数値だけが変わったの。練習後の回復、翌日の動き出し、暑くなってからの落ち方。普通なら少しずつ乱れるところが、彼だけほとんど崩れない」
椿は、何も言わなかった。
「最初は、本人がかなり徹底しているんだと思っていたわ。ドイツ帰りで、自己管理の意識も高い。そう考えれば、ある程度は説明がつく」
相模はそこで、わずかに眉を寄せた。
「でも、途中から違和感が出た。あれは、選手本人の自己管理だけで出せる安定じゃない。練習後の補給、翌朝への残し方、暑くなってからの食欲低下への対応。毎日、誰かが見て、調整していないと続かない」
相模の視線が、椿へ戻る。
「正直、少し嫌な気持ちにもなったわ。高校一年生の選手が一人でここまで整えられるなら、私たち管理栄養士は何のためにいるのかって」
椿は、手元の資料を軽く握った。
「でも、この記録を見て分かった」
相模は、椿が提出した資料をもう一度開いた。
「天根くんの後ろに、あなたがいたのね」
椿は、少しだけ背筋を伸ばした。
「私がしたのは、食事を組んで、状態を記録して、次の日に合わせて調整しただけです」
「その“だけ”を、毎日外さずにやるのが難しいのよ」
相模の声は、厳しくも、どこか納得したようだった。
「個人管理としては、かなり見えている。少なくとも天根くんに関しては、私が今から追うより、あなたの方が早いでしょうね」
相模の隣には、二年生の葛城が立っていた。
昨年もサッカー部の実習補助に入った生徒で、今年も現場経験者として帯同することになっている。葛城は、相模の横から椿の資料を見ながら、何度か眉を寄せていた。
成績が良いことと、五十人に食べさせることは違う。
その目は、そう言っているようだった。
けれど、相模は椿を持ち上げたままにはしなかった。
「ただし、橘さん」
「はい」
「このまま合宿に持ち込んだら危ない」
椿は黙って相模を見た。
「あなたが見てきたのは、一人でしょう」
「……はい」
「一人なら、食べる量も、好みも、練習後の反応も追える。朝の顔色も見られる。食べ残しも、その場で理由を聞ける。でも合宿は違う」
相模は、机の上にある別のファイルを軽く叩いた。
「五十人いる。好き嫌いも違う。胃の強さも、暑さへの弱さも違う。朝から食べられる子もいれば、練習後に固形物が入らない子もいる。アレルギーもある。予算もある。調理時間もある。厨房の人手も限られてる」
椿は視線を落とさなかった。
「あなたの理論が間違っていると言っているわけじゃない。むしろ、個人管理としてはかなり精密に見ている。でも、集団にそのまま当てたら、正しいものが正しく届かないことがある」
相模は資料を閉じず、そのまま椿の前に置いた。
「現場ではね、完璧な献立より、食べきれる献立の方が勝つことがあるのよ」
その言葉は、椿の中にまっすぐ入った。
栄養価が足りていること。
必要なタイミングで必要なものを入れること。
それは、椿がずっと考えてきたことだった。
けれど、食べてもらえなければ、意味がない。
蓮は食べる。
必要だと分かれば、迷わず食べる。
椿が出したものを、競技のための一部として受け取る。
でも、五十人全員が蓮ではない。
その当然のことが、合宿という現場では最初の壁になる。
「承知しています」
椿は持ってきたもう一つのファイルを開いた。
「なので、全員に同じ精度の個別管理をするつもりはありません。合宿中のメニューは、基本の献立を一つにして、選手の状態に合わせて調整幅を作ります」
相模の目が、少しだけ細くなった。
「調整幅?」
「はい。朝食をしっかり食べられる選手、練習後に固形物が入りにくい選手、発汗量が多い選手、筋肉量が多くて摂取量を落とせない選手、胃腸への負担が出やすい選手。大きく五つに分けて、主食量、汁物、補食、酸味や香りの使い方で調整します」
椿はページをめくった。
そこには、選手を名前で分ける表ではなく、状態で分ける表があった。
練習後の食欲。
朝の食事量。
汗の量。
筋肉量とポジション。
暑熱環境下での疲労の出方。
相模は資料を受け取り、黙って読み始めた。
今度は、ページをめくる速度が遅かった。
「……分類管理」
「はい」
「一人ひとりの専用メニューを作るんじゃなくて、基準を決めて、そこからずらすのね」
「はい。厨房の負担を増やしすぎない範囲で、選手側の受け取りやすさを変える形です」
「補食も?」
「全員一律にはしません。練習前に入れる組と、練習後を厚くする組で分けます。ただ、本人の希望だけではなく、実際の食べ残しと翌朝の状態を見て、途中で入れ替える前提です」
「あなた、これを一週間で回すつもり?」
「一人では無理です」
椿は即答した。
相模が、そこで初めて少しだけ笑った。
「そこまで分かってるなら、いいわ」
葛城がわずかに顔を上げる。
「相模先生、本当に一年生にそこまでさせるんですか」
「全部を任せるとは言ってないわ」
相模は葛城にそう返し、それから椿へ向き直った。
「主導権は私が持つわ。献立の最終決定も、食材発注も、アレルギー対応も私の責任。あなたには、選手の状態観察と、補食の調整案、食べ残しの記録を任せる」
「はい」
「それと、夕食後に毎日ミーティングをしましょう。あなたの見立てを聞く。通せるものは通すし、危ないものは止めるわね」
「ありがとうございます」
「勘違いしないで。あなたの理論を見せる場所じゃない。選手を預かる場所よ」
相模の声は、厳しかった。
椿は強く頷いた。
「はい。分かっています」
「でも」
相模は、椿の資料をもう一度見た。
「これだけ見てきたなら、現場に出した方がいい。机の上で寝かせておくには、もったいないわ」
椿は顔を上げた。
相模はすでに次の資料を開いている。
「まず、明日までにこの五分類を、サッカー部のポジション別にざっくり当てはめてきて。実際の割り振りは合宿初日に変える。あと、天根くんの扱いは別枠ね」
「別枠、ですか」
「彼はあなたが見た方が早いでしょう。私が一週間で追うより、あなたの方が状態変化を読める。もちろん、最終確認は私がするけど」
椿は一瞬だけ言葉に詰まった。
それは、蓮一人の管理が認められたということだった。
同時に、その精度を保ったまま、外側も見ろと言われたということでもあった。
「分かりました」
椿は静かに答えた。
葛城は、もう一度だけ椿の資料を見た。
疑念は消えていない。
けれど、先ほどより少しだけ、その目の温度は変わっていた。
資料を抱えて部屋を出ると、廊下の窓からグラウンドが見えた。
サッカー部が練習している。
蓮が中央でボールを受け、桐生が斜めに走る。ボールは、桐生の歩幅の先へ落ちた。
椿は足を止めなかった。
見なければならないものは、もう一人分ではない。
ただし、中心は変わらない。
天根蓮を、全国で最高の状態にする。
そのために、椿はチームを見る。
合宿出発当日の朝。
常盤台高校の校門前には、大型バスが二台並んでいた。
選手たちがスポーツバッグを抱え、次々と荷物を積み込んでいく。誰かが忘れ物を取りに走り、別の誰かが補助席の位置で揉めている。桐生の笑い声が、バスの向こう側から聞こえた。
その横に、白い実習着を着た椿が、手に分厚いノートを持って立っていた。
蓮一人の記録ではない。
サッカー部員五十人を、どう見るか。
何を記録するか。
どこで食べられなくなるか。
誰に、どのタイミングで補食を入れるか。
全員を、全国で戦える状態へ持っていくためのノートだった。
「橘さん、本当に来るんだな」
荷物を積み終えた蓮が近づいてきた。
「実習だから」
「そうか」
「あなたの管理だけをしに行くわけじゃないわよ」
「分かってる」
蓮は短く答えた。
その声に、余計な感情はなかった。
ただ、椿がそこにいることを確認し、それで一つ不確定要素が減ったような顔をしていた。
「でも、いるなら助かる」
椿は一瞬だけ蓮を見た。
「何が?」
「食事と状態管理を考えなくていい。俺は練習に集中できる」
蓮にとっては、それだけだった。
そこへ桐生が顔を出す。
「おーい、天根。乗るぞ。あと橘さん、うちの飯、よろしくな」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
椿が頭を下げると、桐生は笑ってバスへ乗り込んだ。
蓮もそれに続く。
乗り込む直前、蓮が一度だけ振り返った。
椿は、実習ノートを胸の前で抱えたまま頷いた。
バスのエンジンがかかる。
窓の向こうで、選手たちの声が重なる。遠征の高揚。全国前の緊張。夏休みの浮ついた空気。その全部を乗せて、バスはゆっくりと動き出した。
目的地は、山間部の強化合宿所。
酷暑と高湿度。
一日三部練習。
食欲の落ちる昼。
疲労の残る朝。
五十人分の身体と、五十通りの反応。
椿は窓の外を流れる校舎を見ながら、膝の上のノートに指を置いた。
これまで自分が見てきたのは、天根蓮という一人の選手だった。
けれど、全国を戦うのは、一人ではない。
蓮のパスが届く場所に、走れる選手がいなければならない。
蓮が前を向く前に、受け口を作れる選手がいなければならない。
終盤に足を止めず、最後の一本を信じて走れるチームでなければならない。
そのために、椿は初めて、自分の見立てを組織へ向ける。
そこが、椿の合宿での戦場だった。
バスは校門を抜け、夏の道路へ出た。
全国への準備は、もう始まっていた。
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